あらすじ
ほんの数回会った彼女が、人生の全部だった。古びた団地の片隅で、彼女と出会った。彼女と私は、なにもかもが違った。着るものも食べるものも住む世界も。でもなぜか、彼女が笑うと、私も笑顔になれた。彼女が泣くと、私も悲しくなった。彼女に惹かれたその日から、残酷な現実も平気だと思えた。ずっと一緒にはいられないと分かっていながら、一瞬の幸せが、永遠となることを祈った。どうして彼女しかダメなんだろう。どうして彼女とじゃないと、私は幸せじゃないんだろう……。二人が出会った、たった一つの運命。切なくも美しい、四半世紀の物語


ひと言
本の紹介ポップに「二人の関係を友情と呼ぶには浅くて、愛と呼ぶには陳腐な気がする」と書かれた書店員さんがいましたがその通りだなと思いました。この本も前に読んだ凪良 ゆうさんの「汝、星のごとく」同様に直木賞候補でしたが惜しくも選には漏れてしまった作品。しかし2023年の本屋大賞のノミネート10作に選ばれているので、これもありかも……。と思わせてくれるような素敵な作品でした。今年の本屋大賞はレベルが高く、とても楽しみです。

「どうしたの?」「スコップ、持ってこなきゃ」そうだ、手で土を掘って埋めるのは大変だし、汚れる。果遠ちゃんはきみどりを持ったまま駆け出し、階段の手前でくるっと振り返ると「結珠ちゃんはそこで待ってて」と言った。「そこの、光のとこにいてね」その時、ちょうど私の立っているあたりだけぽっかりと雲が晴れ、小さな陽だまりができていた。私は「うん」と答えた。「待ってる」果遠ちゃんがぱたぱたと階段を駆け上がり、家の中に入る。私はドアの閉まる音を聞き、次に開く音を聞き逃さないよう耳を澄ませていた。ふっと、足下が暗くなる。あ、影になっちゃった、お日さまが雲で隠れたからだ。そう思うのと同時に声がした。「結珠」真後ろにママがいた。声は静かだったけれど、何だか目がきょろきょろしていて、ふだんのママとは違っていた。何で。まだいつもの時間じゃないのに。凍りつく私の手を取ってママは歩き出す。「勝手にうろちょろしないで」待ってママ、友達と約束したの。光のとこに、光のところにいなきゃ。でももう、光は消えた。ママはいつもよりもっと早足で、手をほどいたら私を置き去りにしたまま走って行ってしまいそうだった。それでもいい、心の中の私が言う。置いて行ってくれたら、果遠ちゃんのところに戻れる。一緒にきみどりを埋めて、果遠ちゃんと遊ぶんだ。暗くなっても、あしたになっても、ずっと。でもママは私の手を強く握って離さなかったし、私はママに逆らわなかった ―― いつもどおりに。
(第一章 羽のところ)

「わたし、お母さんと離れて、ひとりで生きていけると思う?」「思わない」「何で?」「お前はあの母親を見捨てらんねえからだよ」チサさんは静かに言った。「お前は強くてやさしいから、弱い母ちゃんを捨てられない。捨てるのはいっつも弱いほうなんだ」石けんを投げた時の、お母さんのちいさな悲鳴を思い出した。わたしが、お母さんをまともに狙えはしなかったことも。「お前はいい子だよ。だから、ひとりで生きてくのはもうちょっと後にしな。でないと結局自分がつらくなる」
(第二章 雨のところ)

「校章なかったでしょ。体育の時間にわたしが盗んだの」「え、何で?」「欲しかったから」「……何で?」果遠ちゃんは答えなかった。結珠ちゃん、と昔のように呼んだ。「この前、わたしが結珠ちゃんだったらいいと思うかって訊いたよね」取り乱して口走った、今は後悔している発言を蒸し返されるのはいやだった。忘れてほしいのに。でも見開かれた果遠ちゃんの瞳が、そこに宿る、全身のエネルギーを凝縮させて作った宝石みたいな光が、私に有無を言わせない。「わたしは思わない。絶対に思わないよ」「何で?」三度目の問いかけを投げると、果遠ちゃんは私の傘の陣地に半歩ぶんだけ踏み込み、猫が鼻をちょんとくっつけてくるようなキスをした。「だって自分が結珠ちゃんだったら、結珠ちゃんを好きになることができないから」そしてさっと飛びすさるように離れると、「バイバイ」と笑って背を向ける。「果遠ちゃん」「動かないで」さっき笑顔だったとは思えないほど鋭い声だった。「お願い。十数える間だけ、そこにいて ―― そこの、光のとこにいてね」あの日と同じ台詞。でも私たち、もう七歳の子どもじゃないでしょう。どうしてそんなこと言うの。果遠ちゃんは駆け出した。ふたりで通った道じゃない、知らない街の暗がりへ。ばしゃばしゃ水をはね上げる足音はすぐに聞こえなくなり、私の傘や辺りの木々をやわらかく打つ雨音だけが残った。
(第二章 雨のところ)

「瀬々ちゃんと同じ年の頃に、時計の読み方がわからない友達がいたの」自分が、ひゅっと息を呑む音が周りに聞こえてしまったかと思った。地面に時計の絵を描いて二本の針が示す意味を説明してくれた結珠ちゃん。「私が教えたらすごく喜んでくれて、それが先生になりたいと思った理由」「それだけ?」「そう。嬉しかったの。何かかできるようになるっていう喜びを見せてもらったのは、自分にも何かができるんだって教えてもらったのは、私のほうだったの。人から見ればちっぽけなことだったとしても、私にとっては大切な ――」わたしがそろそろと息を吐き出すのと同時に、結珠ちゃんの両目にみるみる涙が盛り上がり、頬を伝う。それが顎の先まで流れていく前に結珠ちゃんはぱっと顔を耐けて立ち上がった。「結珠」藤野が腰を浮かせる。「何でもない ―― ごめんなさい、すこし悪酔いしたみたい。きょうは失礼します。ごめんね、瀬々ちゃん、またね」涙を拭いながら結珠ちゃんが出て行き、藤野も頭を下げてその後を追った。
(第三章 光のところ)

「疲れちゃった?」「ううん ―― え、待って、何で」結珠ちゃんは鍵盤の上に指を伏せ、重たげに頭を振っている。わたしが空のマグカップを持って立ち上がると、目を眇(すが)めて「信じらんない」と漏らした。「薬盛ったでしょ」「一応、結珠ちゃんのお母さんより控えめな量にしといたから」「ふざけないで」滑舌のあやふやな口調で、それでも必死に睡魔と闘っているのがわかる。「ごめんね、決心が鈍りそうだから、どうしてもすぐ出発したくて」「だったら」「一緒に行こうって言ってくれるつもりだった? そんな気がしたから薬を入れたの」「どうして」「いろんなしがらみを切ってふたりでやり直そうとしても、結珠ちゃんはきっと忘れられないから。瀬々や藤野のことを考えて罪悪感に苦しむはめになる。結珠ちゃんはそういう人だよね。そんな結珠ちゃんだから好きなの」光のとこにいてね、と言ったわたしか、結珠ちゃんに影を落としてしまうわけにいかない。「そんなの ――」何か言おうとした結珠ちゃんを、怖いの、と遮った。ひょっとしてわたし、自分が思うほど強くなかったのかも。「離れ離れになるのが。わたしたちはもう大人だから、今度は誰のせいでもなく、自分の手で壊しちゃうんじゃないかって。耐えられない。だから、いつかまた、約束もなく会えるのを楽しみにしてる。次は三十年後とかかな?」「そんなのやだ」「ごめんなさい」「果遠ちゃん」「目が覚めたら、藤野のところに帰ってね ―― 光のとこにいてね」「行かないで」最後のひと言は気力を振り絞ったのか、やけにはっきりと大きな声たった。その直後、こと切れたみたいに座布団に沈む。
(第三章 光のところ)

カーテンを閉めようと顔を上げた時、何かが視界に引っかかった。海岸沿いに延びた国道を走る車の一台に目が吸い寄せられる。白いプリウス。ナンバーもドライバーもここからは見えないのに、なぜかわかった。結珠ちゃんの車だ。ようやく大人しくなっていた心臓が、また暴れ始める。停車駅で先回りするつもりだ。次、どこに停まるんだっけ。どうしよう。怖いのに、いけないのに、わくわくしてる。走り出したい気持ちをこらえて窓に額を押しつける。これ以上近づけないのかもどかしい。結珠ちゃん、わたしが見えてる?海が光っていた。波も光っていた。空も光っていた。結珠ちゃんの車のボンネットもフロントガラスも、すべてが光の中にいた。
(第三章 光のところ)