あらすじ

わたしは愛する男のために人生を誤りたい。風光明媚な瀬戸内の島に育った高校生の暁海(あきみ)と、自由奔放な母の恋愛に振り回され島に転校してきた櫂(かい)。ともに心に孤独と欠落を抱えた二人は、惹かれ合い、すれ違い、そして成長していく。生きることの自由さと不自由さを描き続けてきた著者が紡ぐ、ひとつではない愛の物語。まともな人間なんてものは幻想だ。俺たちは自らを生きるしかない。


ひと言
第168回(22年度下半期)の直木賞候補にも選ばれた本作ですが、残念ながら選には漏れてしまいました。でも2023年の本屋大賞のノミネート10作にも選ばれていて、これ受賞するかも……。と思わせるような作品でした。とても切ない作品だけれど穏やかな瀬戸内海の島々が頭に浮かんでくるような素敵な作品でした。読み終えてすぐに他の本屋大賞のノミネート作品も読んでみようと3冊ほど予約を入れました。

眠る擢の隣で、改めて、わたしたちのことを考えてみた。いつからか対等に話せなくなったこと。よしよしと適当に頭をなでて、それで満足すると思われるようになったこと。けれど本当にわたしがつらかったのは、侮られる程度の自分でしかないという現実だったんだろう。わたしが今のわたしに価値を見いだせない。だから言いたいことも言えず、飲み込んだ自身の不満で自家中毒を起こしている。そう考えると、問題の根本は自分なのだとわかる。擢が好きで、ずっと一緒にいたくて、でもいつからか、擢への気持ちの根底に愛情とは別のものが混じりだしたんじゃないだろうか。島やお母さんから自由になりたくて、そのパスポートのように擢との結婚を望んでいたんじゃないだろうか。現実ってそんなもんでしょうと、もうひとりのわたしが囁きかけてくる。打算ごと引っくるめて擢を愛していると開き直ればいい。そしてわたしをここから連れ出してと縋(すが)りつけばいい。もう、ひとりで社会と戦いたくない。仕事なんてしたくない。月末にお金の心配をしたくない。将来が不安で眠れない夜を過ごしたくない。稼ぎのある男と結婚したい。専業主婦になりたい。子供を産んで夫の庇護の下で一生安心していたい。
すべての本音と欲望を並べ立てたあと、ふっと我に返った。「……お母さんとおんなじだ」自分で自分を養う力がない不自由さ、自分の生活基盤を夫という名の他人ににぎられている不安定さ、その他人がある日突然去っていくかもしれない危うさを、わたしは母親を通じて何年も味わってきた。お母さんを親として大事に思いながら、ああはなりたくない、ならないと思ってがんばってきた。なのに今のわたしは ――。もう一度きつく目を閉じて、無理矢理に視界から擢の姿を消した。
(第二章 波蝕)

「わたし、強くないわよ?」「強いですよ。わたしが知ってる中で一番強い女の人です」「そう? 若いころはなにかあるたびビーピー泣いてばかりだったけど」「想像できない」瞳子さんは首をかしげ、なにもない宙を見上げる。「強いんじゃなくて、愚かになれただけだと思う」「愚か?」「どこ行きかわからない、地獄行きかもしれない列車に、えいって飛び乗れるかどうか」えい……とわたしは繰り返した。「必要なのは頭を空っぽにする、その一瞬だけ」あとは勝手に走っていく、後戻りはできないの、と瞳子さんはやはり軽やかに笑った。
帰り道、海岸線を車で走っていると、いきなりなにかが飛び出してきてブレーキを踏んだ。黒い小さな動物がすばしっこく夕闇の中へ消えていく。よかった、轢かなかった。息を吐いてシートにもたれ、車の窓越しに暮れてゆく海を眺めた。西の空に一粒だけ輝いている星がある。夕星。高校生のころ擢に教えてもらった。―― 東京でも見えるのかな。―― そら見えるやろ。けど島から見るほうが綺麗やろな。―― ちょっと霞んでるのも味があるよ。穏やかな波音を聴きながら、幻の列車に思いを馳せた。わたしは擢との結婚という列車に乗れなかったのか、擢との別れという列車に乗ったのか。それすらわからないわたしは、これ以上愚かになどなりようがない。あの日と同じ夕星が光る空の下で、わたしは途方に暮れている。
(第三章 海淵)