あらすじ
小さな病院は命がけでコロナに立ち向った。感染症指定医療機関でコロナ禍の最前線に立ち続ける現役医師が自らの経験を克明に綴った記録小説。「対応が困難だから、患者を断りますか? 病棟が満床だから拒絶すべきですか? 残念ながら、現時点では当院以外に、コロナ患者を受け入れる準備が整っている病院はありません。筑摩野中央を除けば、この一帯にあるすべての病院が、コロナ患者と聞いただけで当院に送り込んでいるのが現実です。ここは、いくらでも代わりの病院がある大都市とは違うのです。当院が拒否すれば、患者に行き場はありません。それでも我々は拒否すべきだと思うのですか?」


ひと言
今年最初の一冊に読んだ夏川 草介さんの「レッドゾーン」が良かったので、読み終えてすぐ図書館に予約を入れました。現役医師の言葉なので、ひと言ひと言が重みがあり「コロナは、肺を壊すだけではなくて、心も壊すのでしょう」という言葉が印象的でした。

「敷島の病院もそうだろうが、うちも上層部には繰り返し危機感を伝えている。けれどもそれがなかなか切迫感を持って他の医療機関に伝わっていかない。だいたいコロナ診療ってのは、誰もが秘密にしたがる傾向を持っている。風評被害や近所からの嫌がらせを恐れて、個人も病院もやたらと秘匿したがる。こんな病気はこれまでなかった。おかげで俺たちでさえ、どこの病院にどの程度の患者がいるのかさえ把握できていない。その秘匿性が、この厄介な感染症への恐怖感まで見えにくくしているんじゃないかと思う」踏み込んだことを朝日は口にした。
(第一話 青空)

「ご家族に、内視鏡処置の結果を説明します。呼んでください」告げると、背後にいた看護師が慌てて処置室から駆け出して行こうとする。「急がなくていい」敷島は、柔らかな口調で呼び止めた。振り返る看護師に、敷島はゆっくりと言葉をつなぐ。「我々が慌てていては、家族も不安になる。いつもと同じように……いや、いつも以上に、落ち着いて呼び入れてください」穏やかなその口調に救われたように、看護師は大きくうなずき、一礼してから身を翻していた。
(第二話 凍てつく時)

「家から出ていないと言いましたが、店の方はどうしているんですか?」「年が明けてからは閉めてますよ。こんなご時世ですからな。客もめっきり減って、ろくに実入りがありません。しかし万が一、俺が客からコロナをもらって家に持ち帰ったら、おふくろはイチコロでしょう。俺も黙って家に閉じこもっているんですよ」軽い笑顔でそんなことを言う。山村の店は病院からほど近い通りにあり、敷島も足を運んだことがある。田舎町とはいえ、従業員ふたりを雇って繁盛していたはずであった。「きついですね」敷島が言えば、むしろ山村は驚いたような顔をする。「きついったって先生、実際患者さん診てる先生たちの方がずっときついでしょう。俺たちなんて、知れたもんですよ。パスタを食いにきてくれないからって、すぐ死ぬわけじゃあるまいし」さらりと爽やかな風が吹き抜けたような返答であった。敷島の方が戸惑ったくらいだ。”みんなが不満を言ってるわけではないと思うよ”そんな言葉を口にしたのは敷島自身である。格別の信念があって言った言葉ではない。ただ、きっとそうではないか、そうあってほしいという祈りにも似た思いがあっただけである。だが、少なくとも見当違いの空想ではなかったということだ。
この未曽有の大災害の中で、多くのひとが、静かに耐え続けている。テレビでは大声ばかりが行きかっているが、それがすべてではない。マスメディアは、舞台上で声を張り上げる人にスポットライトを当てることは得意だが、市井の沈黙を拾い上げる機能を持っていない。うつむいたまま地面を見つめ、歯を食いしばっている人の存在には気づいていない。声を上げない人々は、すぐそばに当たり前のようにいる。苦しい毎日に静かに向き合い、黙々と日々を積み上げている。「じゃあ先生、俺はおふくろと車内待機なんで」気軽に手を上げて、山村は背を向けた。歩き出しながら肩越しに、「先生もお大事にしてください」そんな言葉を投げかけていった。遠ざかる背中を、敷島は黙礼とともに見送る。駐車場の向こうに山村が見えなくなるまで、敷島はしばらく動かなかった。
(第二話 凍てつく時)

低い声の中に珍しく怒気がある。この老医師が怒りを見せるなど、いまだかつてどの医師も見たことがない。ゆっくりとうなずく三笠の前で、「コロナは、肺を壊すだけではなくて、心も壊すのでしょう」言ったのは春日である。「コロナと聞いただけで、誰もが心の落ち着きをなくし、軽薄な言動で人を傷つけるようになる」妻や子供から避けられている春日の言葉には、抑えきれない痛ましさがある。「不安に駆られた人々にとっては、感染者が実際にいるかどうかは関係がありません。ただいたずらに暴言を吐いて、他人を傷つけ、しかもあくまで自分が被害者面をする。当の本人たちは自分の心が病んでいることにさえ気づかないのですから、これほど厄介な話もないでしょう」
(第二話 凍てつく時)