あらすじ
九州の静かな港町で叔母と暮らす17歳の少女、岩戸鈴芽。ある日の登校中、美しい青年とすれ違った鈴芽は、「扉を探してるんだ」という彼を追って、山中の廃墟へと辿りつく。しかしそこにあったのは、崩壊から取り残されたように、ぽつんとたたずむ古ぼけた白い扉だけ。何かに引き寄せられるように、鈴芽はその扉に手を伸ばすが……。やがて、日本各地で次々に開き始める扉。その向こう側からは災いが訪れてしまうため、開いた扉は閉めなければいけないのだという。星と、夕陽と、朝の空と。迷い込んだその場所には、すべての時間が溶けあったような、空があった。不思議な扉に導かれ、すずめの“戸締まりの旅”がはじまる。新海誠監督が自ら執筆した、原作小説!


ひと言
新海 誠 監督の「すずめの戸締まり」の原作本。いつも観たい映画があるときは、その原作本があればできるだけそれを読んでから映画を観るようにしています。多くの場合は映画よりも原作本の方がいいと感じることが多いけれど、この本の場合は映画のあらすじは良くわかり、予告編を見ても、これはあのシーンだなとはわかるけれど、これは新海 誠監督のあの素晴らしい画とスケール感抜群の映画で観てみたいなぁと思いました。


ミミズが赤銅色の花となり、空に大きく開いている。校庭を見ると、地面から無数の金色の糸が生え、上空のミミズに向かって伸びていく。ミミズが地気を吸い上げているのだ。空の大輪となったミミズは、地気の重さをその内側にたっぷりと蓄え、地面に向かってゆっくりと倒れ始める。「鈴芽さん、君が鍵をかけろ!」私の胸の下で、草太さんが叫んだ。「えり!?」「もう時間がない。目を閉じ、ここで暮らしていた人々のことを想え!」「ええ!?」「それで鍵穴が開く!」「そんなこと言ったって――」草太さんを見る。彼はまっすぐに戸を睨んだまま、「頼む!」と切実な声で言う。「俺には何も出来ないんだI何も出来なかった、この体では…… 頼む、目を閉じて!」その言葉の必死さに、私は弾かれるようにして目をつむった。でも、何をすれば?ここにいた人たちのことを想う?
それってどうやって――。「かつてここにあったはずの景色。ここにいたはずの人々。その感情。それを想って、声を聴くんだ――!」ここにあったはずの景色――私は思い描こうとする。山に囲まれた学校。陽に輝く広い校庭。玄関の両脇には、私の高校と同じように蛇口の並んだ水飲み場がある。今は泥に埋もれたこの場所で、きっとジャージ姿の生徒たちが水を飲んだりしていたはず。千果。からりとしたあの笑顔。蛇口の水は甘く冷たく、「ようけリセットしんさい」と友達と笑いあう。おはよう。登校時には賑やかだったはずだ。おはよう、おはよう、おはよう。声が聞こえてくる。テストのだるさ、教師の噂話、好きな子への告
白のプラン。色が見えてくる。学年別の三色のジャージ。朝日を反射する白いセーラー服。膝上まで詰めた紺色のスカート。第ニボタンまで開けたシャツの眩しさと、こっそりと染めた髪の色たち。
「―― かけまくもかしこき日不見(ひみず)の神よ」あの歌うような不思議な節回しで、草太さんが何かを唱えている。「遠(とお)つ御祖(みおや)の産土(うぶすな)よ。久しく拝領つかまつったこの山河(やまかわ)、かしこみかしこみ、謹んで ――」「……!」私の右手の中で、鍵が温度を帯びている。青く光っている。青い束のような光が鍵から立ち昇り、アルミ戸に集まっていく。戸の端を押す私の左手のすぐ横に、光の鍵穴のようなものが出来上がっていく。「―― 今だ!」草太さんが叫ぶ。その声に押されるようにして、私は鍵を光に突き刺す。「お返し申す ――!」草太さんのその叫びと同時に、私は反射的に挿し込んだ鍵を回す。ガチャリと何かが締まった手応えがあり、アルミ戸にはめられたガラスが一斉に割れて私たちの背中に降りそそぐ。――と、膨らみきった泡が割れるような音と共に、頭上のミミズが弾け散った。重い雨雲が一斉に吹き飛ばされたかのように、気圧が一気に軽くなる。その数瞬後、きらきらと複雑な光を反射する雨が、シャワーで一吹きしたように私たちのいる廃墟をざーっと洗ったのだった。
(三日目 入れない扉、行くべきではない場所)


私は顔を上げた。すると目の端に、黄色いものが映った。私は手の甲で押し込めるようにして両目の涙を拭い、その子供椅子を手に取り、すずめへと駆け寄った。「すずめ――」泣きじゃくる少女の傍らに、私は椅子を置いてしゃがみ込んだ。「ねえ、すずめ、ほら!」「え……?」瞳からぽろぽろと涙をこぼしながら、すずめが驚いた顔をする。「すずめの椅子だ……。え? あれ?」そう言って、不思議そうな顔で私を見上げる。「……なんて言えばいいのかな」私は笑顔を作りながら、言葉を探す。気づけば太陽は雲の下に沈み、あたりは透明な群青に包まれている。「あのね、すずめ。今はどんなに悲しくてもね ――」私に言えることは、本当のことだけだった。とても単純な、真実だけだった。「すずめはこの先、ちゃんと大きくなるの」強く風が吹き、私たちの涙を頬から空に吹き上げた。空が暗さを増し、星たちが輝きを増した。「だから心配しないで。未来なんて怖くない!」すずめの瞳に、星が映っている。私はその場所までまっすぐに言葉が届くように願いながら、声を強くして、唇に笑みを作って、言った。
「ねえ、すずめ ――。あなたはこれからも誰かを大好きになるし、あなたを大好きになってくれる誰かとも、たくさん出会う。今は真っ暗闇に思えるかもしれないけれど、いつか必ず朝が来る」時が早送りをしているように、星空が目に見える速度で回っていた。「朝が来て、また夜が来て、それを何度も繰り返して、あなたは光の中で大人になっていく。必ずそうなるの。それはちゃんと、決まっていることなの。誰にも邪魔なんて出来ない。この先に何が起きたとしても、誰も、すずめの邪魔なんて出来ないの」幾筋もの流れ星が空で瞬き、やがて草原の向こうの空がピンク色に染まりはじめた。朝だ。私は朝日に照らされていくすずめを見つめながら、もう一度繰り返した。「あなたは、光の中で大人になっていく」そう言って、私は椅子を手に取り、立ち上がった。すずめは私を見上げながら、不思議そうに訊ねる。「お姉ちゃん、だれ?」「私はね ――」あたたかな風が吹く。足元の草花が吹き上げられ、踊るように私たちの周囲を舞っている。私は身をかがめ、すずめに黄色い椅子を差し出しながら言う。「私は、すずめの、明日」すずめの小さな手が、しっかりと椅子を摑んだ。
(常世 ぜんぶの時間)