あらすじ

大晦日、実家に帰ると母がいなかった。息子の泉は、夜の公園でブランコに乗った母・百合子を見つける。それは母が息子を忘れていく日々の始まりだった。
認知症と診断され、徐々に息子を忘れていく母を介護しながら、泉は母との思い出を蘇らせていく。ふたりで生きてきた親子には、どうしても忘れることができない出来事があった。母の記憶が失われていくなかで、泉は思い出す。あのとき「一度、母を失った」ことを。泉は封印されていた過去に、手をのばす。現代において、失われていくもの、残り続けるものとは何か。すべてを忘れていく母が、思い出させてくれたこととは何か。


ひと言

映画の原作本ということで借りました。世の中で話題になっている認知症を取り上げた小説、映画ですが、すべてを忘れていく母が、思い出させてくれた半分の花火……。少し軽いような気がしました。映画の評判もあまりよくないようなので観るのは止めておきます。


「ここの方はみなさん認知症なんですか?」ダイニングテーブルを囲み、夕食になにを作るか語らいながらいんげんの筋を取っている入居者たちは、脳の病気を患っているようには見えなかった。窓際にある古いロッキンチェアに座った女性は、器用に針を動かしレースを編んでいる。
「みなさんそうです。意味や出来事の記憶はなくなっても、手続きの記憶は残っている。だから名前は忘れても、料理や手芸はできる。ここは手や足で触れるものや目に入るもののほとんどを木材や布など自然の素材で作るようにしています。冷たい情報がなるべく体に伝わらないように。窓やドアに鍵はかかっていませんが、逃げだす方はほとんどいません。ひとり歩きや暴力などは症状です。認知症そのものを治すことは難しくても、ストレス要因を減らすことで、症状を抑えることはできると私たちは考えています」
(9)

葛西百合子。一月一日生まれ。息子の名前は泉。甘い卵焼きとハヤシライスが好き。レコード会社で働いている。ヘルパーの二階堂さんは十時に来る。食パンを買わない。美久ちゃんのレッスンはもうない。泉の奥さんは香織さん。お花を切らさない。トイレは寝室の横。晩御飯はもう食べた。泉に迷惑をかけない。ちゃんとひとりで生きる。ベビー服をプレゼントする。電球と単三電池とハミガキ粉を買う。どうしてこうなってしまったのだろう。泉、ごめんなさい。
百合子が繋ぎとめようとしていた記憶の断片が、そこに溢れていた。

ここがトイレで、こちらがお風呂。なぎさホームで何度も反芻していた母の声。バックミラーのなかで小さくなっていく姿が脳裏に浮かふ。ホームの玄関先に立ち、心細そうな顔でこちらを見ている。
床に落ちたメモの上にぽたぽたと水滴が落ちた。悔しくて、情けなくて、鳴咽が漏れた。ごめん母さん。ずっとひとりで苦しんでいたんだね。気付かなくてごめんなさい。滴り落ちる涙を拭うことなく、震える手で一枚一枚メモを拾い集めた。
(10)

引っ越した日の夜、がらんどうの家の軒先でふたり並んですいかを食べていると、遠くの空に花火が打ち上がった。けれどもそれは、目の前にある背の高い団地に遮られ、上半分しか見ることができなかった。低いところにある花火にいたっては音だけしか聞こえず、時折高く上がるそれだけが団地の屋上の縁から半分だけ顔を出す。「きれいな花火…… 今まで見た中でいちばんきれい」半円の光を見ながら、百合子が目を細める。「半分しか見えないよ」泉はすいかにかぶりつきながら背を伸ばし、少しでも花火が見やすい場所を探す。「でも私にとってはいちばんきれい。今日あなたとふたりで、なにもないこの家から、半分しか見えない花火を見たってことが、とても嬉しいの」泉もそれを美しいと思った。潤んだ瞳で花火を見つめる母の横顔も。「いつも思うんだけどさ」「なに?」「花火ってなんか悲しいよね。終わったら忘れちゃうじゃん。どんな色だったとか、形だったとか」「そうかもね …… でも色や形は忘れても、誰と一緒に見て、どんな気持ちになったのかは思い出として残る」そうでしょ? 百合子が泉を見つめ、その手を握る。「うん……忘れないよ」今日のことは、覚えていると思う。泉は半分の花火を見ながら呟いた。「そうかしら?」百合子は泉の横顔を見つめて笑う。「あなたはきっと忘れるわ。みんないろいろなことを忘れていくのよ。だけどそれでいいと私は思う」ひとりぼっちの泉の前に、白、赤、黄色の花火が次々と打ち上がる。いずれもが上半分しか見ることができない。二十数年ぶりに眼前にあらわれた半分の花火を目の当たりにして、あの時の母との会話をはっきりと思い出した。「あなたはきっと忘れるわ」母の予言が、耳元で蘇る。母はずっと覚えていた。自分が忘れていたのだ。半分の花火は、こんなに近くにあった。それなのに母が最後に見たかった花火を、見せてあげることができなかった。悔いと悲しみがいっぺんに胸の奥からせりあがってきて、泉の体を震わせた。声を出すこともできず、膝をついてうずくまった。苦しくて、呻くことしかできない。打ち上がる半分の花火が、母との記憶を次々と蘇らせる。言葉の代わりに涙が溢れ出てきて、泉の頬を濡らした。母さん、ごめん。すっかり忘れてたんだ。
(15)