あらすじ
遥か昔、神郷からもたらされたという奇跡の稲、オアレ稲。ウマール人はこの稲をもちいて帝国を作り上げた。この奇跡の稲をもたらし、香りで万象を知るという活神〈香君〉の庇護のもと、帝国は発展を続けてきたが、あるとき、オアレ稲に虫害が発生してしまう。時を同じくして、ひとりの少女が帝都にやってきた。人並外れた嗅覚をもつ少女アイシャは、やがて、オアレ稲に秘められた謎と向き合っていくことになる。「飢えの雲、天を覆い、地は枯れ果て、人の口に入るものなし」――かつて皇祖が口にしたというその言葉が現実のものとなり、次々と災いの連鎖が起きていくなかで、アイシャは、仲間たちとともに、必死に飢餓を回避しようとするのだが……。オアレ稲の呼び声、それに応えて飛来するもの。異郷から風が吹くとき、アイシャたちの運命は大きく動きはじめる。


ひと言
上下に分かれた作品で、長いわりに中だるみせずに読むことができました。読んでいて「風の谷のナウシカ」のような自然との共存を強く感じる作品でした。

マシュウの言葉を聞くうちに、ふと遠い記憶が甦ってきて、アイシャは目を細めた。(白き岩の道、深くひび割れ、谷の底に、緑の川……)子どもの頃、山頂祈禱を達成して帰って来た〈幽谷ノ民(マキシ)〉の若者から聞いた話を思い出し、アイシャは思わずつぶやいた。「……大崩渓谷(トオウラ・イラ)みたい」目を上げて、マシュウは微笑んだ。「初めて読んだとき、おれも身に震えが走った。ダドウラは、ひび割れた餅(ドウラ・ウラ)の古語だ。オアレ稲を作れるようになって、餅を食べていたアミル=カシュガが、大崩渓谷を取り巻く山の高みにある、あの白くひび割れた岩道の様を曽孫に語るとき、ダドウラと表現したとしてもおかしくはない」マシュウは、冷めてしまったお茶を一口飲んだ。
「大崩渓谷は帝都の西だが、英雄譚では、アライルとアミルは東に向かったことになっている。おれは何年もかけて、様々な機会を捉えては、皇祖の英雄譚に描かれた東の地を旅してまわったが、この描写に合うような渓谷には出会えなかった。おれの父も、多分、同じことをしたのだと思う。おれよりも長い年月をかけて。そして、ひとつの結論に達したのだろう」マシュウは、アイシャを見つめた。「神郷オアレマヅラは、帝都の東ではなく西にある。英雄譚に描かれている旅の描写は、神郷へ至る道を隠すために描かれた虚構で、アミル=カシュガは自分の老いを自覚しかとき、後世のために、真実の欠片を残すことを思い立ち、曽孫にこの『旅記』を書かせたのだ、と」アイシャは、あ、と、声を上げた。「だから……だから、お父さまは大崩渓谷を訪れて、それで……」マシュウはうなずいた。「そうだ。だから、父は大崩渓谷に来たのだ。そして、母と出会い、おれが生まれた」
(第三章 異郷から来た者 六、『旅記』)


息を飲んで、アイシャはマシュウを見つめた。「父の仮説は、こうだ。遥かむかし、冷夏などで、大崩渓谷に暮らしていた人々は飢餓の恐怖に晒された。そのとき、偶然、ふたりの若者が行方知れずになり、やがて、禁忌の地からひとりの少女を連れて帰ってきた。彼らは、オアレ稲の種籾を携えていた。オアレ稲は異様なほどに寒さに強い。しかも、稲は育たぬはずの大崩渓谷でも育つ。その頃、大崩渓谷に暮らしていた人々は、その奇跡の種によって命を救われたのだろう。だが、数年後か、十数年後かわからないが、何かが起きた。―― オアレ稲が呪われた穀物、と、人々から嫌われるようになった原因をつくった、何かが。そのとき、〈幽谷ノ民〉は、ふたつの集団に分かれたのではなかろうかと、父は考えた。ひとつはそのまま故郷に残り、オアレ稲を呪われた穀物として決して作らなくなった一族。そして、もうひとつは皇祖アライルとアミル=カシュガに率いられて、オアレ稲を携え、香君とともに、新天地を求める旅に出た一族」薄い書物をめくって、マシュウは最後の方を読んだ。「滔々たる大河マナスには幾多の支流あり。ラマルらが大荒地(ユイーノ)と呼びたる大平原は、豊かな水源に恵まれながら、夏が短き不毛の地な……」『旅記』から顔を上げて、マシュウは言った。「皇祖たちが辿り着いたのは、豊かな水源に恵まれ、寒ささえ克服できれば大豊作を見込める平原だったのだ」そこまで聞いたとき、あることが頭に浮かび、アイシャはつぶやいた。「……もしかしたら」マシュウが目顔で促したので、アイシャは言葉を継いだ。「『旅記』がそこで終わっているのは、途中で終わらせたわけではなくて、そこが終点だったから……?」とたんに、マシュウが破顔一笑した。「君は、本当に鋭いな!」毛羽立った書物をふりながら、マシュウは言った。「これを読んだとき、おれもそう思った。帝都を現在の場所に築いたのは後のことで、アミル=カシュガたちはまずユイノ平野で暮らし始めたのではないか、それを暗に示すために、いかにも中途半端で、心にひっかかるような形でこの書を終えたのではないか、と」アイシャは荒涼たる大平原に立つ人々の姿を思った。
(第三章 異郷から来た者 八、皇祖が来た道)


アイシャは、「旅をしているのは、別の理由もあるのですけれど」と、言った。「別の理由?」「私、自分が知り得たことを、多くの人に伝えておきたいのです。―― みんなが自分で判断できるように。自分の行動が何に繋がり、どんな結果をもたらすのか、想像できるように」「……」「ヒシャが現れた時点で、シダラ栽培地の農夫たちが、ヒシャの恐ろしさを知っていたら、事態は変わっていたかもしれません。他の栽培地に広がる前にここで止めよう、と思う人もいたかもしれない。稲を焼くのはつらいことですから、そんな決断しなかったかもしれないけど、でも、焼かなかったら何か起こるか想像できていたら、したかもしれない……」アイシャは夕暮れの草地を見つめて、言った。「知識さえあれば、辺境の農夫たちだって、自分たちの未来を、自分たちで救えたかもしれない。―― でも」つっとアイシャは、顔を歪めた。「私の存在が、そういう可能性を妨げてしまっています。万象を知る神がいるのだから考えるのは任せて、その言葉に従えばいいと思わせている。万象を知るどころか、知らないことだらけの、こんな私が香君なのに」ため息をつき、首をふって、アイシャは言った。「香君がいることは、帝国が民を支配するには都合がいいのでしょうけれど、でも、それは、とても危ういことです。恐ろしいことです。―― ひとつの声で、多くの人々を従わせてしまうのは」ユーマはしばらく黙って考えていたが、やがて、口を開いた。「……私もずっと同じようなことを考えて来ましたから、貴女のご懸念はよくわかります。しかし、ヒシヤの災いを経験してみて、私は、むしろ、貴女が言う、ひとつの声が、実に大きな力を発揮することを痛感しました。人は様々です。自らの利益を決して譲りたくない人も多い。彼らの意見を尊重していたら、目を覆うような事態になっていたはずです。アイシャは、うなずいた。「どんな道にも、それぞれの難点がありますね」ため息をつき、アイシャは夕暮れの空を見上げた。「それでも、私は香君を神にしない道を探したいです。ここで変えなければ、同じことが繰り返されてしまう……。
(終章 香君の道)