あらすじ
白鳥建二さん、51歳、全盲の美術鑑賞者。年に何十回も美術館に通う――。「白鳥さんと作品を見るとほんとに楽しいよ!」という友人マイティの一言で、アートを巡る旅が始まった。絵画や仏像、現代美術を前にして会話をしていると新しい世界の扉がどんどん開き、それまで見えていなかったことが見えてきた。アートの意味、 生きること、 障害を持つこと、 一緒に笑うこと。白鳥さんとアートを旅して、見えてきたことの物語。


ひと言
前に読んだ「あずかりやさん」に続いて目の不自由な人の話です。読んでいて白鳥さんは目が見えないことを少しは不自由だけど、ハンデだと捉えていないことに驚き、どうしてそういう心境に至れるのだろう。もし自分が今後事故や加齢で目が見えなくなったときそういう心持になれるのだろうか?というのがこの本を読んでの一番の感想でした。白鳥さんの「ひとは「時」というものに抗うことはできないけれど「時」を宝物にすることはできるから。」という言葉が印象的でした。



水戸芸術館で鑑賞ワークショップを企画した森山さんの言葉をいま一度思い出したい。ワークショップの目的は、「見えるひとと見えないひとの差異を縮めることではなかった」と言ったのだが、まさにそこだった。見えないひとと見えるひとが一緒になって作品を見ることのゴールは、作品イメージをシンクロナイズさせることではない。生きた言葉を足がかりにしながら、見えるもの、見えないもの、わかること、わからないこと、そのすべてをひっくるめて「対話」という旅路を共有することだ。感想や解釈が同じではないからといって、相手が間違っているわけではない。むしろ違いがあるからこそ発見があり、自分の海域が豊かになる。そうするうちに、自分でも何年も忘れていたことを語り出すこともあるかもしれない。今日のわたしたちのように。
(第4章 ビルと飛行機、どこでもない風景)

この社会におけるできごとのすべてには異なる視座があり、異なる「正義」がある。経済のため、効率のため、会社のため、国家のため。わたしには筆舌に尽くしがたいほど理不尽に感じる福島県の原発事故にも、誰かの「正義」がある。どんなにひとが苦しんでいても、「それでも原発は必要だ」と固く信じて主張し続けるひともいる。長崎・広島への原爆投下もシリア内戦も、視座が変われば誰かの「正義」がそこにある。そういった「正義」と「正義」はぶつかり合って、砕け散って、その破片はときになんの関係のないひとまで傷つけてしまう。だから、もしかしたら、ひとつの正義を信じる自分もまた誰かにとって非道な刃になっているのかもしれなかった。「悲劇」を後世に伝えるだけではなく、そこにある多面性、複雑さを理解しながら、一歩ずつ先に進んでいかないといけない。白鳥さんが言わんとすることはそういうことなのではないだろうか。
(第4章 ビルと飛行機、どこでもない風景)

「こういうことってたまにあるんだよね。みんなで見ていると、知らず知らずのうちに作品の核心に近いところにたどり着いちゃうの。ひとりでそこまでたどり着くって難しいんだけど、みんなで色々と話しているうちに、『実はそうなのかも』というところまで行けちゃう。ひとりではなし得ないことが、大勢ではできる。だからほかのひとと話しながら見るって、やっぱり面白いんだよねえ」 それは、科学的に見たら「集合知」と呼ばれるものなのかもしれなかった。集合知に関してはいくつか有名な実験があるが、そのひとつが「ゼリービーンズ実験」と呼ばれるもの。瓶に入ったたくさんのゼリービーンズの数を大勢のひとに当ててもらうと、最終的には全員の数を足して人数で割った「平均値」こそが実際の数に一番近くなるという驚くべき結果の実験である。別に美術鑑賞は科学実験ではないので、平均値をとる必要はまったくないのだけれど、それでもランダムに印象を話しているうちに作品の核心に近づいてしまう、というのはなかなかスリリングな体験だった。
(第6章 鬼の目に涙は光る)

夢の役割やメカニズムはまだ解明されていないことが多いわけだが、それでもひとつわかっているのは、ひとが夢を見ている間、記憶を司る「海馬」が休みの状態にあることだ。だから、そもそも夢は忘れられるべき運命にあるのだ。
(第11章 ただ夢を見るために)


有緒 じゃあ、ちょっと抽象的な質問だけど、あのさ、その幸せはどこにあると思う? 体験の中にあるのか、自分の気持ちなのか。
白鳥 うーん、俺にとっては時間だよね。うん、時間の中だね。
有緒 時間の中に幸せは流れる?
白鳥 うん。時間だから、それはとってはおけない。あとはその経験を自分がどれだけ信じるか、思い出して確かなものだって信じていけるかっていうことかな。
幸せを感じたその時間を、その先も信じていけるか ―― 。
人生は、荒野だ。輝く満月が闇を照らしてくれる日もあれば、放置自転車とか路上に溜まった泥水とかに足をすくわれ、びしょ濡れになって石ころを蹴飛ばしたくなる日もある。幸せの絶頂にいるときは、ライフ・イズ・ワンダフル! なんて思うわけだけど、ワンダフルってだいたい長く続かない。あとに残った現実はうんざりすることの連続で、ときにドアをバンと閉めきって、毛布をかぶって寝てしまいたくなる。それでも ―― 。それでもわたしは、このさきもドアをあけ、路上に出るだろう。そして足元に広がる泥水を見つめ、そこから幸せな記憶を拾い出し、いま手にしているものは路上の石ころなんかじゃないと信じるだろう。ひとは「時」というものに抗うことはできないけれど「時」を宝物にすることはできるから。
(第12章 白い鳥がいる湖)