あらすじ
晩年に建仁寺の「雲龍図」を描いた男・海北友松の生涯とは。―友松が若くして心ならずも寺に入れられた後、近江浅井家に仕えていた実家・海北家が滅亡する。御家再興を願いながらも絵師の道を選択した友松だが、その身に様々な事件が降りかかる。安国寺恵瓊との出会い、明智光秀の片腕・斎藤利三との友情、そして本能寺の変へ。武人の魂を持ち続けた桃山時代最後の巨匠と呼ばれる絵師を描く歴史長編。
 
ひと言
デビュー前から海北友松(かいほう ゆうしょう)という男を書きたかったという葉室 麟さんの50作目の記念作品。いやーおもしろかった♪。一気読みでした。読んでいる途中、もし海北友松を原田マハさんが描いたらどんな小説になったんだろうという思いが頭をよぎりました。この前の3人旅で花見小路から寺の境内を通って八坂通の六道珍皇寺を訪れた折、時間があれば立ち寄る予定だった建仁寺。また暖かくなって、新型コロナウイルスも収まってきたら、そうだ、京都、建仁寺行こう。
 
 
(建仁寺 HPより)
 
「美濃は永年、尾張と闘ってきた。尾張に屈したことの無念は、誰もが胸に抱いておるところだ。些細なきっかけでも、ひとの心は動く。特に、あの方は ―― 」 言いかけて内蔵助は口ごもった。内蔵助が考え込む様子を見て友松は、当てずっぽうに、 「あの方とは明智様ですか」 と訊いた。内蔵助は苦笑した。「友松殿はよくお見通しだ。織田様の正室として美濃から嫁された帰蝶様は、明智様にとって従妹にあたられる。明智様は帰蝶様のことを常に案じておられるだけに、譲り状が偽物だとわかれば、織田様に疑いの気持を抱かれよう」 「ほう、いまの明智様は信長を信じておられるのか」 友松は首をかしげた。比叡山を焼き討ちにして老若男女をことごとく斬り捨てる信長の所業は、まさに悪鬼だとしか思えない。 そんな信長を光秀は信じているのだろうか。
「道三が織田様に美濃を譲る気になったとすれば、それは帰蝶様が嫁した相手だからだということになります。譲り状が本物であれば、織田様は帰蝶様を大事にしているはずです。しかし、偽物だとすれば、織田様は詐略をもって美濃を奪ったことになる。だとすると、いわば美濃からの人質であった帰蝶様を粗略にし、あるいは酷くあたっているかもしれぬ。もし、そうであるなら、明智様は織田様を許さないはずだ」
 内蔵助の言葉は友松の耳に不気味に響いた。 「では、誰かが妙覚寺の譲り状を手に入れて、偽書であることを証し立てれば、明智様は謀反されるということですか」 友松が訊くと、内蔵助は間髪を容れずに答えた。 「謀反ではない。美濃を本来のあるべき姿に戻し、さらに永年、信長のもとで人質同然に暮らされてきた帰蝶様を救うのだ。もし、明智様が立つとすれば、そのためということになろう」
(十四)
 
桂川を長い列になって押しわたる軍勢を見たとき、友松は緊張で体が震えた。 明智勢はいまから、覇王信長を討とうとしているのだ。そう思うと、興奮が体中を駆け巡る。 (わたしはかつて明智様は蛟龍に違いない、と思ったが、いままさに龍として天に駆け昇ろうとしているのだ) 友松は思わず、葦の繁みから飛び出し、川岸に走り出た。 明智勢の動きを残らず見届けたい、と思った。 この一軍が戦国の世の流れを一気に変えようとしているのだ。その様はあたかも暗黒の雲間を切り開いて、龍が姿を現わしたかのようだ。 そう思いつつ眺めたとき、友松の目には、―― 雲龍 の姿が映じた。 龍は仏の教えを助ける八部衆の一つで龍神と呼ばれる。多くの寺で僧侶が仏法を説く法堂の天井に龍を描く。龍神が水を司る神であることから、仏の教えである法の雨を降らすという意味が込められている。 (信長の非道に苦しむ民を救うため、明智様は龍神となられるのだ) 信長の誅殺は光秀の私怨ではなく、―― 天の裁き だ、と友松は思った。 その明智勢を先導しているのは、斎藤内蔵助に違いない。薄闇の中、馬を鞭打たせて進む内蔵助のあたかも摩利支天のような姿が見える気がした。
(二十一)
 
〈雲龍図〉の前に立った恵瓊は、 「まことに見事じゃ。しかし、何とのう、懐かしく思えるのはなぜであろうか」 とつぶやいた。「それはかつて恵瓊殿が会われたことがあるからであろう」 友松はさりげなく言った。「わたしが会ったことがあるとはどういうことです」恵瓊は振り向いた。 友松は〈雲龍図〉を見つめながら、「この絵には武人の魂を込めました。されば、恵瓊殿がこれまで会った武人たちを思い出されるのではございませんか。たとえば、山中鹿之助殿、清水宗治殿などでございましょう」 と言い添えた。 「なるほど、そういうことか。だとすると、友松殿がこの絵の双龍に込めた武人の魂とは彼のひとたちでございましょう」 「誰だと思われるのですか」 友松は微笑んで恵瓊を見つめた。 恵瓊はちらりと友松を見てから、ふたりの武人の名を口にした。 明智光秀 斎藤内蔵助 ふたりの名を聞いても友松は顔色を変えず、平然としている。 恵瓊はため息をついた。 「わたしが再興しようとしている建仁寺の襖絵に、よりによって主殺しの大罪人の魂を込めるとは、困ったことをされるひとだ」 「わたしは明智様と斎藤殿を大罪人とは思っておりません。織田信長という魔王からこの世を救った正義の武人であろうかと思っています」 「それゆえ、この寺にふたりの魂を留めおこうということですか」 「いけませぬか」友松は微笑んだ。「いかんと言っても、もはや描いてしまったものは、いかんともしがたいでしょう」 恵瓊はおかしげに笑った。友松はうなずいた。
「わたしは、絵とはひとの魂を込めるものでもあると思い至りました。この世は力ある者が勝ちますが、たとえどれほどの力があろうとも、ひとの魂を変えることはできません。絵に魂を込めるなら、力ある者が亡びた後も魂は生き続けます。たとえ、どのような大きな力でも変えることができなかった魂を、後の世のひとは見ることになりましょう」 恵瓊の目には、濃淡の墨で描かれた龍が、いまにも襖から脱け出て天へと駆け昇るのではないかと見えた。
(二十四)