あらすじ
日本に美術館を創りたい。ただ、その夢ひとつのために生涯を懸けた不世出の実業家・松方幸次郎。戦時下のフランスで絵画コレクションを守り抜いた孤独な飛行機乗り・日置釭三郎。そして、敗戦国・日本にアートとプライドを取り戻した男たち。すべては一枚の絵画(タブロー)から始まった。あのモネが、ルノワールが、ゴッホが!国立西洋美術館の誕生に隠された奇跡の物語。原田マハにしか書けない日本と西洋アートの巡りあいの物語!
 
ひと言
読み終えてこの本の最後のページにある「この物語は史実に基づくフィクションです。」の言葉に、松方幸次郎 共楽美術館 睡蓮、柳の反映 etc ete … といろいろと検索してみました。
この本に出てくる残念ながら返還されず今はオルセー美術館所蔵のゴッホの《アルルの寝室》や、2016年に上半分が欠損した状態で発見されたモネの《睡蓮、柳の反映》がデジタル推定復元されて展示されている松方コレクション展(2019.6.11~9.23)が国立西洋美術館の60周年記念として行われていたことや、原田マハさんが国立西洋美術館の設立60周年の6月10日に間に合うように、餞(はなむけ)として「松方コレクション」を巡る小説の上梓を急いだということを知りました。
本作品は第161回直木賞(2019上半期)候補にもなりましたが、残念ながら今回も受賞とはなりませんでした。是非2020年の本屋大賞は原田マハさんに取って欲しい。まだ原田マハという作家を知らない人に知ってもらい、原田マハさんしか書けないこんなに素敵なアート小説をもっともっと知ってもらいたい。読んでもらいたいです。
 
 
「松方コレクション」を築いた松方幸次郎(慶応元年12月/1866年1月~1950年)は、明治の元勲で総理大臣も務めた松方正義の三男です。神戸の川崎造船所の創業者である川崎正蔵に見込まれ、1896年(明治29)年、同社の初代社長に就任しました。松方幸次郎が美術品の収集を始めたのは、第一次大戦中のロンドン滞在時のことです。大戦により造船で多大な利益を上げた松方は、1916(大正5)年から約10年の間にたびたびヨーロッパを訪れては画廊に足を運び、1万点におよぶと言われる膨大な数の美術品を買い集めました。しかし、松方が美術にこれほどの情熱を傾けたのは、自らの趣味のためではありませんでした。彼は自分の手で日本に美術館をつくり、若い画家たちに本物の西洋美術を見せてやろうという明治人らしい気概をもって、作品の収集にあたっていたのです。松方は購入した作品を持ち帰り、美術館を建てて公開する準備をしていました。その美術館は「共楽美術館」と名づけられましたが、日の目を見ることはありませんでした。1927(昭和2)年の経済恐慌が状況を一変させてしまいました。
パリに残された約400点の作品はレオンス・べネディットに預けられ、彼が館長を兼任したロダン美術館の一角に保管されていました。この作品群は第二次大戦の末期に敵国人財産としてフランス政府の管理下に置かれ、1951(昭和26)年、サンフランシスコ平和条約によってフランスの国有財産となります。しかしその後、フランス政府は日仏友好のためにその大部分を「松方コレクション」として日本に寄贈返還することを決定しました。このコレクションを受け入れて展示するための美術館として、1959(昭和34)年、国立西洋美術館が誕生したのです。
(国立西洋美術館のHPより)
 
 
西村の話に、田代も、雨宮も、萩原までも、全身を耳にして聴き入った。雨宮は、まるでいまから吉田=シューマン外相会談が始まるかのように、完全に前のめりになっている。……。 緊迫した場の空気に反して、西村は、ふっと頬を緩めて言った。 「驚くべきことに……総理が話し出したのは、〈松方コレクション〉のことではなかったのです。まったく関係のない話を始めてしまって……」 「えっ?」と雨宮が、目を瞬かせた。 「二十分しかないのに……ですか?」 「ええ。戦前、総理が若かりし頃の思い出話です」 吉田の口から飛び出した思い出話。それは、彼が外務省に勤務する一外交官だった時代のことである。……。ある年、この査察使に任命された吉田は、ソ連の日本大使館視察のためにモスクワを訪れた。滞在中に街なかを見て回ったが、「フランスの美術品をたくさん展示している美術館がある」とのうわさを聞いて、なぜソ連の美術品ではなくてフランスの美術品を展示しているのだろう、と興味が湧き、そこへ行ってみた。
展示室に入ったとたん、吉田は荒々しい美の荒野に足を踏み入れた心地になった。 壁いっぱいに見たこともないような不思議な絵がずらりと並んでいた。あざやかな色彩、自由自在に躍動するかたち。歌い、奏で、踊り、笑い、怒り、泣き、生きる。人も、動物も、風景も、静物も。いっさいがおおらかで、この世界に生きて呼吸している絵画がそこにはあった。―― これはいったい、なんなんだ? もとより、絵画に明るいほうではない。画家の名前も知らなければ、描かれた時代もわからない。 しかし、そんなことは関係ない。いま、自分が目にしている絵に宿る「命」の輝きはどうだ。ぐんぐんと迫りくるこの力強さは。―― このすべてがフランス絵画だと? どれもこれも、圧倒的な「傑作」じゃないか。 何をもって「傑作」というのかわからない『それでも吉田の脳裡には「傑作」のふた文字以外には浮かばなかった。 体がかっかと燃えるほど吉田は興奮した。胸を熱くしたままで、美術館を後にした。―― すごいものを見てしまった。 吉田は胸のうちで賞賛した。これほどまでの傑作を美術館に揃えたソ連を ―― ではない。フランスを賞賛したのである。 ソ連国民を感動させるばかりか、日本人の自分の心までも熱く沸き立たせる、そんな傑作の数々はフランスで生まれたものなのだ。 これほどまでに傑出したフランス絵画の大コレクションがソ連にあるのには驚嘆したが、結果的に、これは、ソ連におけるフランス文化の大いなる宣伝となっている。 これこそが、芸術・文化の底力ではないか。 若き日の吉田は、そう悟りを得た。 その思い出話を、外相会談の冒頭で、切々と語ったのだ。 シューマンは興味深そうに傾聴していた。「ソ連におけるフランス文化の大いなる宣伝」のくだりでは、大きくうなずいた。それを見逃さずに、吉田は畳み掛けた。
――〈松方コレクション〉には、フランス美術が多数含まれていると聞きます。 フランスには当然数え切れないほどの美術品があるわけですから、〈松方コレクション〉がこのさきフランスにあっても、またなくても、ほとんど影響はないはずです。 しかし、それがもし、日本にあったなら、どれほど大きな影響を日本人に与えることでしょう。日本人はフランス美術をこよなく愛しているにもかかわらず、ほとんどの国民がほんものを見たことがないのです。 松方幸次郎氏は、この状況を憂えていました。だからこそ、私財を投じてフランス美術を収集し、いつの日か日本に西洋美術館を創ろうと考えていたのです。が、志を果たすことなく他界してしまいました。 もしもいっそのこと、フランスが〈松方コレクション〉を日本へ贈ってくれたならば、日本国民はどれほど喜び、また励まされることでしょう。そしてフランスに感謝することでしょう。 そしてもし、それを基に美術館を開設することができたならば、わが国におけるフランス文化の有力な宣伝にもなるはずです。 これはフランスにとって損にはならない。否、必ず有益な結果となる。 いかがでしょうか。 この提案、受け入れていただけませんか ――。 「まさしく立て板に水のごとく、総理は一気に話されました。遠い日のモスクワでの思い出話から始めて、最後はきっちりと結んでいた。『〈松方コレクション〉を日本へ戻してほしい』と」
西村が語り終えたとき、全員、テーブルに身を乗り出していた。 「………シューマン外相の答えは……どうだったのですか?」 ごくりと喉を鳴らして、雨宮が訊いた。 西村が、眉をかすかに上げて答えた。
「たったひと言。『ウイ、首相閣下(ムツシユウ・ル・プルミエ・ミニストル)』」
(2 一九五三年六月 パリ 日本大使館)
 
前衛芸術家たちの作品、たとえば印象派や後期印象派と呼ばれる画家たちの一派は、いまでこそ欧米で人気を博しているが、最初のうちは酷評され、フランス人はほとんど見向きもしなかった。「印象派」という呼び名も、モネやドガなどの前衛画家たちが自費で場所を借りてグループ展を聞催したさいに、モネが出展した作品の題名〈印象 日の出〉をもじって評論家がからかい半分でつけたものである。
(2 一九五三年六月 パリ 日本大使館)
 
「美術とは、表現する者と、それを享受する者、この両者がそろって初めて『作品』になるのです。……〈松方コレクション〉を、このまま死蔵させるわけにはいきません」
(2 一九五三年六月 パリ 日本大使館)
 
つい二、三十年まえまでは「タブローのなんたるかを知らぬ愚かものたちの落書き」などと批評家に手厳しく揶揄された画家たち ―― マネ、モネ、ルノワール、ピサロ、シニャック、ドガ、セザンヌ、ゴッホ、ゴーギャン、スーラなどを、時代の最先端に立ち、保守的な画壇の様式と考え方に果敢に切り込む「前衛(アヴアンギャルド)」の画家と目し、彼らを売り出した画商たちがいた。アンブロワーズ・ヴォラール、ポール・デュラン=リュエル、ダニエル・ヘンリー・カーンワイラー、ベルネーム・ジュヌ兄弟。前衛画家たちの作品をあえて取り扱うことは、彼らにとっては大きな賭けであった。
(3 一九五三年六月 パリ ルーヴル美術館)
 
〈アルルの寝室〉は、縦約五十七センチ・横約七十四センチの油彩画、一八八九年制作、ゴッホ晩年の作品である。……。田代は、一瞬、口ごもって、自分の片頬を平手でぴしゃりと叩いた。 「……なんて言うか……私は……いや、何を言っても追いつかない。私は、感電した。フィンセント・ファン・ゴッホという名の雷(いかずち)に」 初めて目にしたゴッホの絵。―― ぐうの音も出ないほどやられてしまった。それは、まさしく芸術の神の打擲(ちょうちゃく)であった。
南仏の町アルルで、ゴッホが晩年に暮らしたつましい一室。灰色がかった青い壁、ライラック色の床。ペッドと二脚の椅子、脇机がひとつ。かすかに開きかけた窓には、まぶしい緑の照り返しが映っている。窓の横に掛けられた鏡は、南仏の強い光を弾いて白く見える。ベッドに載せられた白い枕も、ほのかに戸外の照り返しを映しているのがわかる。毛布の赤が画面全体をぴりりと引き締めて、強いアクセントになっている。 ベッドが接している二方向の壁には、額入りの小振りの絵が脇に四枚、枕の上に一枚。男女の肖像画と風景画は、いちばんお気に入りの自作の絵に違いない。 部屋は画面全体が歪んで見えるほど極端にデフォルメされている。まるで奥にある窓が空間全体をぐぐっと力強く引っ張っているかのようだ。無人の部屋は、それ自体が呼吸し、脈打って、躍動感が満ち溢れている。 
動きのある画面と同じくらい田代が驚かされたのは、陰影がいっさい描き込まれていないことだった。床に置かれたベッドにも、脇机にも、椅子にも、壁の額にも影がない。それぞれのオブジェが画面にぺたりと貼り付けられたように平面的である。それでいて、そのすべてに、ふうっと浮かび上がってしまいそうな浮遊感があった。 極めて平面的、つまり正しく「絵画」的な絵。それなのに、映画の一コマが飛び出してきたような動きのある絵。具象的なのに、抽象的。にごりのない色彩と大らかな色面。まるで、彼が愛したという日本の浮世絵のような ――。―― 奇跡の一枚であった。
(3 一九五三年六月 パリ ルーヴル美術館)
 
 
松方と田代がルノワールの傑作〈アルジェリア風のパリの女たち〉を目にしたのは、ポール・デュラン=リュエル画廊であった。 ルノワールが描いたのは、当時、画家であれば一度は取り入れてみたかったであろう魅力的な題材、ハーレムの女たちである。ただし、そこは写実を重んじたルノワールである、行ったことも見たこともないイスラム世界の女性を空想で描きはしない。あくまでも「アルジェリア風」の装いをしたパリの女たちをモデルに描いたものである。 あたたかみのある褐色を基本色に据えて、アラブ風の絨毯の上に憩う三人の女たち。中央の金髪の女性は白いやわ肌をさらして鏡を眺めている。両脇の黒髪の女たちは彼女の化粧を手伝う召使い役だ。エキゾチックな衣装や装飾品、オリエント世界への憧れが色濃く漂い、画面全体に蠱惑的な空気を醸し出している。 「ハーレムの女たちに扮したパリジェンヌは、ほのかな色香をまとっていて、いつまでも飽かず眺めていたい気持ちが込み上げてくる……そんな一作だった。
(3 一九五三年六月 パリ ルーヴル美術館)
 
 
〈睡蓮、柳の反映〉。一九一六年に完成して、モネが手元に置いていた大作である。縦二メートル近く、横四メートル以上。赤や白の睡蓮がほころぶ池に薔薇色がかった青空が溶けて広がり、柳の枝がしんと静まり返ってさかさまに映り込んでいる。初めてアトリエを訪問したときに、そこにある何点かの作品の購入を許された松方だったが、この一点は許されなかった。が、今回の再訪で松方は粘った。この作品こそ「共楽美術館」に展示したいいちばんの作品である。日本の国民のために、どうか譲ってほしい。ジヴェルニーを日本に連れ帰らせてほしい――と。 松方の熱意に、巨匠は打たれたようだった。そして、もう少し考えさせてほしいと言った。お待ちしています、と松方は言った。あなたがこの絵を日本へ送り出してくださることを――。……。……。
ふと、隣の松方がつぶやいた。 「君の言う通りだ、あの色はおかしい」 田代は松方のほうを向いた。松方は、ふっと笑い声を立てた。 「でも、わかったかい、田代君? あの絵は、傑作だ。色がどうとか、理屈じゃない。モネが、あの大画家が、もうよく見えんのに、必死に絵筆を動かしている様子を見ていると、わしはなんだか、わけもなく泣けてくる。そうやって、画家がおのれの全部をぶつけて描いた絵を、傑作と言うんじゃないのか?」 そのとき、田代は初めて耳にした。万感の思いを込めて松方が「傑作」の一語を口にしたのを。そして、知らされた。自分が心ではなく頭でタブローを見ていたことを。
(7 一九二一年七月 パリ チュイルリー公園)