あらすじ

戦国乱世を生き抜き、徳川の天下となったのちも、大名として、茶人として名を馳せた小堀遠州。おのれの茶を貫くために天下人に抗った千利休、古田織部とは異なり、泰平の茶を目指した遠州が辿り着いた“ひとの生きる道”とは。「白炭」「投頭巾」「泪」…茶道具にまつわる物語とともに明かされるのは、石田三成、伊達政宗、藤堂高虎など、戦国に生きた者たちによる権謀術数や、密やかな恋。あたたかな感動が胸を打つ歴史小説。

 

ひと言

超有名な作庭家としての小堀遠州(政一)は知っていたのですが、「綺麗さび」と称される武家茶道の遠州流の祖であることは恥ずかしながら知りませんでした。また築城で有名な藤堂高虎の娘婿という血縁関係にもびっくり!。さすがにこれは作り話かなと思って調べてみると、養女にした藤堂嘉晴の娘を妻にしています。少しは聞いたことのあるお茶の名物もたくさん出てきてとても楽しく読ませてもらいました♪。
 
 
千利休以降の茶人を評して、
――織(おり)理屈、綺麗キツハハ遠江(とおとうみ)、於(お)姫宗和(そうわ)ニ ムサシ宗旦(そうたん)
という言葉がある。古田織部は奔放でありながらも理屈っぽい、「綺麗寂び」と言われる遠州の茶は美しく立派であり、これに比べ金森宗和はお姫様好みでおとなしく、「姫宗和」などとも呼ばれ、千利休の孫である宗旦はわびに徹し素朴なだけに、むさくるしいという意味である。 この中でも遠州は利休、織部に次ぐ大茶人であるという声もあった。 織部亡き後は大名茶の総帥として多くの大名茶人を指導した。慶長十三年に従五位下遠江守に叙せられ、遠州と呼ばれるようになったのである。
(白炭)
 
遠州はさりげなく口にしてから、ふと傍らに置いてある茶入れに目を遣った。肩衝である。茶入れは高さ二、三寸の小さな壷だが、丸い形のものを茄子、肩が張ったものを肩衝などという。茶人は茶入れを愛好した。中でも天下三肩衝として、将軍足利義政が命名した端正な姿の、
――初花肩衝
 
 
優美な形から名品の誉れ高く唐物肩衝の第一とされた、
――新田肩衝
さらに、釉薬が濃い飴色であることから「恋」にかけて、『万葉集』巻十二にある、
 み狩する雁羽(かりば)の小野の楢柴のなれはまさらず恋こそまされ
の歌に因んで名づけられた、
――楢柴肩衝  
が名高い。
(肩衝)
 
利休が秀吉の怒りを買い、堺に追放されたときは細川忠興とふたりで見送った。切腹を命ぜられた利休は、茶杓を削り、最後の茶会に用いて織部に与えた。 織部はこの茶杓を収める筒を作った。筒には長方形の小窓が開けられており、織部は窓を通してこの茶杓を位牌代わりに拝んだ。利休が作った茶杓は白竹を材に樋(とい)が深く通って、薄作りにできており、銘は、
――泪である。
(肩衝)
 
 
〈此世〉は一見、香炉というより、小さな壷にしか見えない。地肌の色や釉薬のかかり具合が井戸茶碗を思わせる。特異な姿をしているわけではないが、小品ながらも堂々とした風格を感じさせる。
 
 
〈此世〉の銘は『後拾遺和歌集』にある和泉式部の歌の、
あらざらむ此の世のほかの思ひ出に今ひとたびの逢ふこともがな
にちなんでつけられたと伝えられている。香炉には見えない姿を歌の意に重ね合わせているのであろう。
(此世)
 
「石を立てるとは、すなわち、怨霊を鎮めることであるという。庭とは亡き人を祀るところではないのか」
賢庭は厳しい視線で遠州を見つめながら応じた。「仰せの通り、庭は造った者にゆかりのあるかつて見送ったひとを祀った場所でございます。小堀様なれば、さしずめ千利休様や石田三成様、古田織部様でございましょう。亡きひとを祀る気なくして、作庭はできません。さようなお気持があられましょうか」
「されば、まずは一服、飲んでいただこうか」 遠州は静かに賢庭の膝前に茶碗を置いた。賢庭は気負うところのない所作で茶碗をロ元へ運んだ。 遠州は賢庭に目を向けずに口を開いた。           
「わたしは、茶室で向かい合う相手に生きて欲しいと願って茶を点てる。ひとを祀る場所としての庭を造るということがどのようなことかわかるか、と問われれば、まことにわかっているとは言えぬと思う。しかし、ひとに生きて欲しいと願う心は取りも直さず亡きひとを祀る心に通じるのではないだろうか。生きて欲しいと思う気持があればこそ、祀る心にいたるのだとわたしは思う」
(此世)
 
「それにしても茶人である遠州様が慣れぬ普請の奉行をようなされましたなあ」 左京が感心したように言うと、遠州は微笑んだ。 「初めは何もわからずに手こずったが、普請や作庭は茶の心で行うのがよい、とわかってからは、却ってやりがいを覚えるようになった」 「茶の心でございますか」 栄が興味深げに訊いた。 「そうだ。建物や庭の形を見るのではなく、それらを眺めるひとの心を見つめねばならぬと思った。それは、すなわち、茶の心だ」 遠州が言うと、皆、感慨深けにうなずいた。
(夢)
 
遠州が語り始めた。 「利休様が切腹されるにあたり、堺に向かわれるおり、弟子の中でわが師である古田織部様と細川三斎(忠興)様のお二人だけが見送られた。利休様は茶杓を削って織部様にお与えになった。その茶杓が〈泪〉という銘であり、織部様がその後、窓のある筒に入れて位牌のように拝まれたことは皆、知っておろう。実はそのおり、利休様は三斎様にも茶杓を与えられた。この茶杓の銘は〈ゆがみ〉という。
 
 
遠州は慶長十七年(一六一二)に、京の龍光院に建てていた孤篷庵を寛永二十年、大徳寺の敷地内に移設するとともに茶室を設えて、忘筌(ぼうせん)と名づけた。
 
 
忘筌とは荘子の、――魚ヲ得テ筌(うえ)ヲ忘ル
 からとられている。 筌とは魚をとるための道具で、荘子の言葉は目的を達すれば道具の存在を忘れるという意味である。遠州は禅の境地を示す言葉として用いていた。 茶室は角柱に長押(なげし)つきの書院座敷でありながら、繊細な砂摺り板の天井を低く作り、静かで落ち着いた趣を醸し出している。 縁先に広がる中庭の風景を生垣で遮り、障子を立てた中敷居で手水鉢と石灯寵がある露地だけが茶室から見えるように工夫した。中敷居は上半分が明かり障子、下半分を吹き放しとして、にじり口に代わる席入りの口とした。舟屋の入り口のようでもある、この吹き放しは、露地を眺める際の額縁のような役目も果たしている。吹き放しから「露結」と刻まれた蹲(つくばい)が見える。 「露結」とは「露結耳」、すなわち兎を意味し、「兎を捕えてワナを忘る」という言葉を暗に示して忘筌の対句としていた。
(忘筌)
 
遠州はかつて智仁親王から言われた、「庭はひとをもっと広いところに連れ出すものやないか」という言葉を思い出した。
(忘筌)