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あらすじ
〈年齢・性別ともに不問〉。離婚届に捺印した日、「ちぐさ台団地」の掲示板でそう書かれたメンバー募集の貼り紙を目にし、40歳の洋子は草野球チーム「ちぐさ台カープ」に入ることを決める。 チームメートは、故郷に要介護の親を抱えるキャプテン、かつての甲子園球児、チームの創立者で「カントク」と呼ばれる老人。洋子の中学生の娘も巻き込みながら、草野球チームを通して仕事や家庭でそれぞれの事情を抱える「ふつうの人々」の人生を鮮やかに描ききった傑作長編小説。

 

ひと言
500ページ弱の重松作品です。親子を書かせたら右に出る者がいないけれど、重松さんが書く野球もほんとうにいいなぁと思いながら読ませてもらいました。広島カープの黎明期のことも、重松さんのカープ愛もよく伝わってきて、1975年の広島初優勝を描いた小説『赤ヘル1975』も今度読んでみようと思いました。

 

 

監督は手の甲を将大に向けて指を立てた。右手の五本と、左手が三本 ―― 都大会の初戦で負けた年だった。 「八年もあるんだ、一勝もさせてやれなかった年が。それはつらいぞ、監督として、ほんとにつらくてな、三年生に申し訳なくてなあ …… だから、そいつらのことはいまでも忘れてない、忘れちゃだめなんだよ、絶対に。監督には来年があっても、選手には今年しかないんだから」 将大は黙ってうなずいた。監督ぱ愚痴をこぼしている感じではないし、まだ酔っているようにも見えない。ただ、なぜこんなことを話すのかが、わからない。 監督はビールをまた将大のコップに注ぎ、「不思議だよなあ………」とひとりごちるように言ったきり、しばらく黙り込んだ。 「なにが、ですか?」 将大がうながすと、「不思議っていうか、悲しいよなあ」と苦笑する。「だって、そうだろ? 野球でもサッカーでもラグビーでも、バスケでもバレーでも、高校生のスポーツはみんなトーナメントだ。プロや大学はリーグ戦で勝ったり負けたりできるのに、高校生だけ、一回負けたらおしまいなんだぞ」 言われてみれば、確かにそうだった。 「おまえも大学を卒業したんだからわかると思うけど、人生なんてリーグ戦だよ。勝ったり負けたりして、そりゃあ順位はつくかもしれないけどな、一回負けたら終わるなんて、そんな人生はないんだ、どこにも」 「……はい」 「最近よく思うんだ、じゃあなんで高校生にトーナメントを戦わせるんだ、って。俺はな、ずうっと、選手に勝ちつづけさせたくて監督をやってきたんだけど、最近はちょっと違うんだ、考えてることが。ひょっとしたらな、高野連とか文部科学省とか、そんなセコい話じゃなくて、もっと大きな …… 神さまみたいなのが、おまえらに教えてくれてるんじゃないか、って」 負けることを――。 負ける悔しさや悲しさを ――。 高校を出てからの、長い人生のために ――。 「だからな、俺はいま思うんだよ、ちゃんと負けさせてやるために、一度だけでも勝たせてやらなきゃいけない、ってな」 うん、うん、と監督は自分の言葉にうなずきながら、通りかかった店員を呼び止めて、日本酒を注文した。
(イニング8)

 

 

一つの家族が壊れるというのは、そういうことだった。洋子は形だけ笑って相槌を打ちながら、胸の奥にある苦いものをそっと噛みしめた。 封印しなければならない過去ができてしまう。子どもの思い出話のいくつかは、もう取り出せなくなってしまう。 英明と離婚したあと、洋子が真っ先にしたのは、アルバムの整理だった。新しいアルバムを買ってきて、いままでのアルバムに貼ってあった写真から英明が写っていないものをピックアップして、貼り替えていった。子どもじみた意地悪でそうしたわけではなかった。過去を切り捨てることで、先に進む力を得たかった。もうあの頃には戻れないんだ、と自分に言い聞かせることで、だからこれからがんばるんだ、と ―― 決して現実にはできない「自分で自分の背中を押す」手助けにしたかった。 それでも、おしゃべりをつづける香織を見ていて、いま、思う。決して後戻りすることのできない人生というのは、窮屈なものかもしれない。背水の陣はキツい。たまには一歩下がって水に濡れてしまうのだって、ほんとうは、「あり」でいいのに。……。……。アルバムから剝がした英明の写真は、クッキーの空き箱にまとめて入れて整理棚の奥にしまってある。今度、そこから何枚か、英明の写りがいいものを選んで、新しいアルバムに『あの頃コーナー』をつくってみよう、と決めた。
(イニング10)