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あらすじ
俊英と謳われた豊後羽根藩の伊吹櫂蔵は、役目をしくじりお役御免、いまや〈襤褸(ぼろ)蔵〉と呼ばれる無頼暮らし。ある日、家督を譲った弟が切腹。遺書から借銀を巡る藩の裏切りが原因と知る。弟を救えなかった櫂蔵は、死の際まで己を苛む。直後、なぜか藩から出仕を促された櫂蔵は、弟の無念を晴らすべく城に上がるが……。

 

ひと言
葉室 麟さんをもう一冊。読み進めていくとどんどん引き込まれていき、気がついたら読み終えていたというような本でした。継母の染子がいい。最初はいい印象ではありませんでしたが、「わたくしはそなたをこの家に迎えて誇りとすることができると思っています」。この言葉を聞いたお芳はどれほど嬉しかっただろう。「櫂蔵殿、行ってはなりませぬぞ」と櫂蔵の頬をぴしゃりと力いっぱい叩いた染子。こういう風に感想を書き出すと止まらないのでこの辺で終わりにしますが、とてもいい作品でお勧めの一冊でした。

 

 

振り向きかけた櫂蔵の背に、お芳は顔を押しつけた。 「どんなに辛くても自分で死んじゃいけないんです。そんなことをしたら、未来永劫、暗い所を亡者になって彷徨わなきゃならなくなる。辛くてもお迎えが来るまでがんばって生きたら、極楽の蓮の上で生まれ変われるって、祖母が言っていました。だから、この世で辛い目にあっているひとほど、自分で死んじゃいけないんです」 お芳は、力いっぱい櫂蔵の背中にしがみついて声を震わせた。 「すまぬ。もう馬鹿なことはせぬ」 波にまかせて体を揺らしながら、櫂蔵は夜空を見上げた。月が滲んで見える。ゆっくりと体を回した櫂蔵は、お芳の肩を抱き寄せた。 潮騒がふたりを包んで高く低く響いている。
(四)

 

 

「これはいなくなる前に、さとが仙右衛門殿に届けたものだそうです、伊吹様がお見えになられたら渡してほしいと」 「なんであろう、手紙なのか」 櫂蔵は受け取った紙を開いた。紙にはたどたどしい筆跡で一行だけ書かれていた。
―― しんごろうさまにいちどさととなをよんでいただきました
新五郎様に一度、さとと名を呼んでいただきました、と書かれた文字を見つめているうちに、櫂蔵の目から涙がこぼれた。櫂蔵は紙を開いたまま信弥に渡した。信弥は文字を読んで、「これはいかなることでございましょうか」 と首をかしげて櫂蔵に問いかける目を向けた。 「わからぬか。さとに会ったおり、わたしぱ新五郎と契ったことはないかと訊いた。さとは、ないと答えた。しかし、一度だけ新五郎から、さとと名を呼んでもらったことがあり、それが娘心には嬉しく誇らしかったのだろう。そんなことがあったとわたしに知ってほしかったのではないか」 文字を見つめる信弥の目にも涙が溶んだ。 「さとの心根が、あまりに哀れでございます」 信弥の口から洩れたつぶやきには、持っていき場のない怒りと言い知れぬ哀しみがこもっているようだった。 「さとは、一度だけ名を呼んでもらったことを幸せな思い出にして、苦界に身を沈めるつもりなのであろう」 なんということだ、と吐き捨てるように言って、櫂蔵は畳を拳でなぐりつけた。
(十二)

 

 

「ときに郡代様は、梟の鳴き声をご存じでございますか」 「鳴き声だと?」 眉をひそめて宗彰は訊ぎ返した。 「俗に時鳥(ほととぎす)は、てっぺんかけたかと鳴き、鶯は、ほー、法華経と鳴くと申します。そして梟は、襤褸(ぼろ)着て奉公と鳴くのだそうでございます」 「襤褸着て奉公 ――」 宗彰が首をかしげると、櫂蔵は膝を乗り出した。 「それがし、かつてしくじりにより、お役御免になってございます。それからは自棄を起こし、漁師小屋にて無頼の暮らしをなし、その身なりの惨めさ、汚さから、襤褸蔵などと仇名されて生きておりました。それがこの度また出仕いたすことになり、かつてのおのれの惨めさを忘れず、襤褸着て奉公いたしておるのでございます」……。……。  
「落ちた花は二度と咲かぬと誰もが申します。されど、それがしは、ひとたび落ちた花をもう一度咲かせたいのでございます。それがしのみのことを申し上げているのではございません。それがしのほかにもいる落ちた花を、また咲かせようと念じております」 宗彰は薄く笑った。 「所詮は高望みだな」 「さようかもしれません。ただ、二度目に咲く花は、きっと美しかろうと存じます。最初の花はその美しさも知らず漫然と咲きますが、二度目の花は苦しみや悲しみを乗り越え、かくありたいと願って咲くからでございます」櫂蔵の言葉を、義右衛門と咲庵は静かにうなずきながら聞いていた。
(二十四)

 

 

櫂蔵のさびしげな横顔を見た染子が、ぽつりと言った。 「櫂蔵殿は、落ちた花が再び咲いたとお思いか」 櫂蔵は海に目を向けたまま答えた。 「かつて漁師小屋で暮らし、襤褸蔵などと呼ばれていたわたしが勘定奉行になったのです。家中の者たちは、そのことをもって、落ちた花が再び咲いたと思うやもしれませぬな」 「そうではないのですか」 「わたしは、わたしの花が咲いたとは思っておりません。咲いたとすれば、それはお芳の花でございましょうか」 「ほう、それはどこに咲いているのでしょうか」 染子は微笑して訊いた。 櫂蔵は染子に顔を向けると、片手で自分の胸をどんと叩いた。 「お芳の花は、わが胸の奥深くに咲いております。わたしが生きてある限りは、お芳の花は枯れずに咲き続けることでありましょう」 「そのために、生きるのですか」染子は哀しげに櫂蔵を見つめた。 「さよう、ようやくわたしにもわかったのです。ひとはおのれの思いにのみ生きるのではなく、ひとの思いをも生きるのだと」 「わが命は、自分をいとおしんでくれたひとのものでもあるのですね」 染子は、今度は櫂蔵の顔をまぶしげに見つめた。そこには通い合う情愛の温かさがあった。 「それゆえ、落ちた花はおのれをいとおしんでくれたひとの胸の中に咲くのだと存じます」 櫂蔵が言い切ると、染子はにこりと笑った。 「お芳は幸せですね。櫂蔵殿の胸の内で、これからもずっと美しいまま咲いていられるのですから」 染子に言われて、櫂蔵は胸が熱くなった。 お芳が生きた証が櫂蔵だけでなく、染子の胸中にもあるのだ。いや、染子だけでなく、咲庵や宗平、千代の胸の中にも息づいているに違いない。 そう思っていると、咲庵が笠を持った手で沖合を指した。 「伊吹様、きょうも潮鳴りが聞こえます。しかし、何やら初めて聞く心地がいたします」「そうですか」 うなずいた櫂蔵は、不意にお芳の声を聞いた気がした。
(三十一)