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あらすじ
伍代藩士の楠瀬譲と栞は互いに引かれ合う仲だが、譲は藩主の密命を帯びて京の政情を探ることとなる。やがて栞の前には譲に思いを寄せる気丈な女性・五十鈴が現れて……。激動の幕末維新を背景に、懸命に生きる男女の清冽な想いを描く傑作長編時代小説。伍代藩士の楠瀬譲と栞は互いに引かれ合う仲だが、譲は藩主の密命を帯びて京の政情を探ることとなる。やがて栞の前には譲に思いを寄せる気丈な女性・五十鈴が現れて――。激動の幕末維新を背景に、懸命に生きる男女の清冽な想いを描く傑作長編時代小説。

 

ひと言
図書館の葉室 麟さんの棚で、この本の帯の「この君なくば 一日もあらじ」という言葉が目に止まり、葉室 麟にこのタイトル、もう読むっきゃないでしょと思い借りました。期待通りのとても素敵な本で、譲と栞はもちろん、五十鈴がすごく恰好いいし、こんな藩主いるの!?というぐらい忠継もいい。とても素敵なひとときを過ごさせていただきました。ありがとう 葉室 麟さん。
それにしても葉室さん、【村山たか】(安政の大獄の際には京都にいる反幕府勢力の情報を江戸に送るスパイとなり大獄に大きく加担。桜田門外の変で直弼が暗殺された後、尊王攘夷派の武士に捕らえられ三条河原に3日3晩晒されたが、女性ということで殺害を免れた)【河上彦斎】(幕末の四大人斬りの一人、二卿事件への関与)【二卿事件】(攘夷派の公卿 愛宕通旭と外山光輔が明治政府の転覆を謀ったクーデター未遂事件)などを織り交ぜてくるなんて、ちょっと詳しく書きすぎ!勉強にはなりましたが……。

 

 

暑さで肌が汗ばむ日、此君堂を訪れた譲は、和歌の添削を終えた後、茶室で茶を振舞われた。茶を喫して茶碗を拝しつつ、床の間の掛け軸に目を向けた。
竹葉々(ようよう)清風を起こす  清風脩竹(しゅうちく)を動かす とある。
虚堂禅師の七言絶句詩の三、四句目、 ―― 相送って門に当たれば脩竹あり、君が為に葉葉清風を起こすからとられている。虚堂禅師の住む鷲峰庵に三人の禅友が訪れた。三人は天台山の国清寺に向かう途で、別れ難く門のところまで見送りに出てくると、さわやかな風が吹いて、あたかも別れを惜しむかのように竹の葉がさらさらと音を立てたという。鉄斎はこの詩句を好み自ら筆を執った。 「先生はまことに竹がお好きでしたな」 譲がつぶやくように言うと、栞はうなずいた。 「この君なくば、一日もあらじが口癖でしたから」此君堂の名は、『晋書』王徽之伝にある、竹を愛でた言葉の、―― 何ぞ一日も此の君無かるべけんやからとったもので、〈此君〉とは竹の異称だ。 「竹のまっ直ぐな清々しさを先生は好まれたのでしょう。わたしなどはずいぷんと俗塵にまみれてしまいましたが、此君堂に来ると心が洗われる気がいたします」譲の言葉に栞は微笑した。
十五年前、武蔵と名のっていたころ譲が初めて此君堂を訪れた。その日のことを栞はいまもはっきりと覚えている。譲は玄関で訪いを告げず、竹林を抜けて庭先にまわり、広間で門人に講義している鉄斎の声に耳を傾けていた。 栞は庭に出ようとして譲に気づき、 「おあがりになりませんか」 と声をかけた。すると、譲は恥ずかしそうに顔を赤らめて、 「わたしは束脩(そくしゅう)を払えませんから」 と言った。入門するにはわずかながら金品を納めねばならない。貧しくてそれがかなわない者に対して、鉄斎は庭先から聞くことを許していた。 譲はその日以来、鉄斎が講義を行う時は欠かさず庭先で聞いた。風が強かろうが雨が降ろうが、竹林を抜けてやってくる譲の姿を、いつしか栞は心待ちにするようになっていた。 
どしゃ降りだった日、庭先にひとりで濡れながら講義を聞く譲のために栞は傘を持っていったが、譲は固辞して雨中に立ち尽くした。 一年間通い続けた四月のある日、門人が帰った後で鉄斎は譲に、此君堂の広間に上がるよう声をかけた。広間に座ってすぐに、日頃心がけていることは何だ、と訊かれた。譲は困った顔をしていたが、やがて、 「稚心を去るということでしょうか」 と答えた。鉄斎は譲の返事に興味を示した。 「稚心とは幼い心だな。はやくおとなになりたいのか」 「はい。わたしは軽格の家の二男でございますから、自らの生きていく道を早く見つけねばなりません。いつまでも幼い心でいるわけには参りません」 そうか、とうなずいた鉄斎は、束脩は納めずともよい、あすからは正式の門人として講義を聞くよう譲に言った。 「まことでございますか」 譲の顔がぱっと明るくなった。縁側でふたりの話を聞いていた栞も嬉しくなって顔をほころばした。するとちらりと栞に目を向け、 「わしの娘が、いつまでそなたを庭で立ち聞きさせるのだ、とうるそうてな。雨の日も濡れたままにさせておくわしを、情け知らずのように言うのだ」 鉄斎が笑うと、譲は真面目な面持ちで手をついて、 「お嬢様、ありがとうございます」 と深々と栞に頭を下げた。栞は庭に立ち続ける譲が気の毒だ、と何度か母の房に訴えていた。房がそのことを鉄斎に伝えていたのだろう。 栞は恥ずかしさを覚えて下駄を履いて庭に下り、そのまま竹林の中に駆け込んでいった。さっと風が吹き渡った。(一)

 

 

「さて、そなたに少し、聞いておきたいことがある」 栞が手をつかえると、忠継はおもむろに言った。 「此君堂の此君とは竹の異名らしいが、王徽之(おうきし)が竹を愛でて、何ぞ一日も此の君無かるべけんや、と言うたことに由来するらしいな」「さようにございます」 「されば、これは五十鈴にも訊いたことじゃが、そなたには、この君なくば一日もあらじと想う相手はおるのか」 目を見つめて訊かれ、栞はどきりとした。歌会の満座の前である。何と答えたらよいのか、とっさにはわからない。同じことを五十鈴にも訊いたということは、譲への気持を確かめたに違いない。そのうえで、自分も訊ねられているのだから、忠継は何事かを察しているのだ。忠継が此君堂にまでやって来て五十鈴と会ったからには、譲との間を取り持つつもりでいるのは明らかだ。自分がいま、想う相手がいると言ってしまえば、それを妨げはしないだろうか。 栞が思い惑っていると、忠継が重ねて訊いた。 「いかがした。答えられぬのか」 先ほどまでの張りのある声とは違う、やさしげな物言いだった。
譲にとって忠継は仕えるに足る主君であるのは間違いない。その主君との間に溝ができるようなことをしてはならない。想う相手はいない、と答えようと栞は思った。 顔を上げた時、忠継の後ろに控えた五十鈴と目が合った。五十鈴の出で立ちを見た時、このひとは偽らない真っ直ぐなひとだと感じたのを思い出した。 (五十鈴様の前で嘘はつけない) 栞は忠継に顔を向けて、 「この君なくば一日もあらじ、と想うお方はおりまする」 と言い切った。一瞬、五十鈴の目が厳しくなったが、すぐにやわらかさを取り戻した。少し涙が滲んだように見えたのは気のせいだったのだろうか。忠継はにこりとして、 「さすがに鉄斎の娘じゃ。腹蔵なく申すものよ」 と大声で言い置いて立ち上がった。 「見送るにはおよばぬ。そのままにいたせ」 忠継はそう言い放つと、大股で玄関へ向かった。(七)

 

 

栞がためらいを見せて目を伏せると、譲はやさしく言葉をかけた。 「わたしの妻になるのは気が進まれませぬか」 「いえ、決してさような」 答えてから栞はうなじが熱くなるのを感じた。返事を言いかねてうつむく栞の様子を気にかける素振りも見せず、譲は話を続けた。
「以前、村山たかなる女人が三条大橋でさらし者になっていたのを見たと手紙にてお伝えしましたが、あのおりは、かように嵐の如きご時世となり、わたしもいつ何時どのような災厄が降りかかるかわからぬ身で、栞殿を妻に迎えることなど望むべくもない、と思っておりました」 「その後、お考えが変わられたのでございましょうか」 
「さらされていた村山たかに、運命に翻弄されながらも、おのれの信ずるものに殉ずる美しさを覚えました。いまの世はいずれの地にいようと、荒れ狂う時の流れを避けて通ることなど許されないと覚悟いたすしかないのではありますまいか。すでにわが藩でも尊攘派の争いにより、牛頸川の河原で藩士が斬られるという不穏な事態も起きています。嵐に立ち向かわねばならぬのであれば、大切なひとと手を携えて参りたいと思ったのです」 「さようでございましたか」 栞は胸が一杯になって涙があふれそうになるのを堪えながら譲に顔を向けた。(八)

 

 

竹の葉がそよぐ音にまじって、静かに竹の落葉を踏む音が聞こえてきた。栞がいつも待ちわびてきた足音だ。 やがて竹林を抜けて譲が近づいてくるのが見えた。引き締まった体に洋服がよく似合っていた。栞は微笑み、胸の中でつぶやいた。
―― この君なくは一日もあらし(十七)