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あらすじ
幸せのレシピ。隠し味は、誰かを大切に想う気持ち。うつくしい高台の街にある小さな洋菓子店で繰り広げられる、愛に満ちた家族の物語。香田陽皆(こうだ・ひな)は、雑貨店に勤める引っ込み思案な二十八歳。地元で愛される小さな洋菓子店「スイート・ホーム」を営む、腕利きだけれど不器用なパティシエの父、明るい「看板娘」の母、華やかで積極的な性格の妹との四人暮らしだ。ある男性に恋心を抱いている陽皆だが、なかなか想いを告げられず……。(「スイート・ホーム」) 他、稀代のストーリーテラーが紡ぎあげる心温まる連作短編集。

 

ひと言
えっ これ原田 マハさん?なんか有川 浩さんの本を読んでいるような錯覚に陥りました。この本ももちろん素敵な話の本なのですが、原田 マハさんにしか書けないあの素晴らしいアート系の小説を読みたいなぁ。よろしくお願いします。

 

 

電動式泡立て器をボールに突っ込む私の手元を見て、父が言う。 「ああ、そうやない。角度が悪い。もっと、ボールに対して泡立て器を直角にせんと」 「粉の振い方が甘い。もっとていねいに、サラサラになるまでやるんや」 なんだかんだと口を挟む。けれど、決して手出しはしない。特別な人にプレゼントする特別なケーキ。だから自分が手出しするわけにはいかないんだと、わかっているみたいな。 「お父さん、ゆうべ、寝るまえに言うてたよ。ケーキ作りたいなんて一度も言わへんかったあいつに、ケーキを作りたい気持ちにさせる誰かがおるんやなあって」 静かな声で母が言った。冬のひだまりを集めたようなおだやかな微笑みが、その頬に浮かんでいた。 「みんな、あんたを応援してるねんで、陽皆ちゃん。顔上げて、行っといで。あんたの、大好きな人に会いに」
(スイート・ホーム)

 

 

私たちは、星のきらめく夜空の下へと歩み出した。バニラとバターの甘い香りと、生い茂る青葉の香りの中をバス停へと歩いていく。最初の角を曲がるとき、ふと、昇さんが足を止めた。そして、振り向いた。 青い闇の中に、白く浮かび上がるガラスの箱、「スイート・ホーム」。閉店時間をとっくに過ぎた店には、明かりか灯っていた。そして、店のドアの前に、ぽつりと立つ人影。 父だった。その右手が、白いパティシエ帽を外した。こちらに向かって、ていねいに、深々と、白髪まじりの頭を下げた。
またどうぞ、お越しください。お待ちしております。 
そして、どうか。どうか――どうか。―― 陽皆を、娘を、よろしくお願いします。 
うつくしい一礼にこめられた、言葉にならない言葉。 昇さんは、遠くの父に向き合うと、父よりももっと深く頭を下げた。私もまた、頭を下げた。その拍子に、また、涙がぽつんと落ちた。涙のしずくは、プロムナードの石畳に、にじんで消えた。
(スイート・ホーム)

 

 

どうにかこうにか、掲示板の前にたどり着いた。 私の番号、私の番号、番号、番号……。 どきどき、どきどき、どきどき、どきどき、全身に心臓の音が鳴り響いて、そして……
…… あ ――。「あった ―― っ!」 思わず、叫んだ。近くにいた知らない受験生と、やった、やった! と叫びながら、一緒になって飛び跳ねた。 すぐにお母さんにメールした。合格したよ、と打って、送信……の直前に、打ち直した。春がきました! 「送信」ボタンを押した。と、びっくりするくらいすぐに、メールが返ってきた。 いちばんめの季節の到来、おめでとう! そして、いま。 私は、「スイート・ホーム」に向かっている。 スキップしてしまいそうなほどに軽やかな足取りで。ちょっと冷たい春風が、ほてった頬に心地よい。お母さんからの「由芽合格」の一報を受けて、香田さん一家が、急きょお祝いのスイーツパーティーを開いてくれることになったのだ。 バス停から、キンモクセイの木があるお店までの道のり。駆け出しそうな気持ちを抑え、ゆっくり、ゆっくり、確かめるように歩いていく。
あの角を曲かれば、ほんのりと、バニラの香りが漂ってくるはずだ。きらきらした宝石みたいなスイーツ、大好きなケーキの花が咲く「スイート・ホーム」は、もうすぐそこにある。
(めぐりゆく季節 いちばんめの季節)