イメージ 1 
 
あらすじ
ジュエリーショップで、婚約指輪を見つめるカップルたち。親に結婚を反対されて現実を見始めた若い二人と、離婚を決めた大人の二人。それぞれの思いが形になる光景が胸に響く「消えない光」他23編。
人を好きになって味わう無敵の喜び、迷い、信頼と哀しみ、約束の先にあるもの
すべての大人に贈る宝石のような恋愛短編集。

 

ひと言
かなり短くてもう少し読みたいなぁとも思いましたが、ひとつひとつがとてもよくて、さすがにやっぱり角田光代と改めて感心しました。最初の「約束のジュエリー」もよかったですが、「おまえじゃなきゃだめなんだ」が角田さんらしい感じがして好きでした。実際に関東の方には「山田うどん」というお店があるらしく、もし機会があれば食べてみたいと思いました。

 

 

クリスマス前夜、理菜の出産祝いをすることになっている実家へと香菜は急ぐ。手にした袋には、両親と理菜夫婦への贈り物、それから七実への贈り物が入っている。ペビースプーンといっしょに、七実に贈るちいさな鍵のネックレスの包みもある。 「なあにこれ、すごくきれい! 赤ちゃんにはもったいない、私がもらう」包みを開けて言う妹に、「だめ、それは七実のもの」香菜は真顔で返す。そう。その鍵はこの世界にやってきたばかりのこの子のもの。 その鍵で開けた世界は、とんでもなくすてきなもので満ちているんだよ。私がちょっとだけ触れた、たくさんの人の人生のしあわせな欠片、だれかのたいせつな思い、だれかを思う気持ち、変わらないもの、消えないもの、だれにも奪えないものが、その世界にはいっぱいある。だから七実、この先、こわいことやかなしいことがあったときには、その鍵で開けた世界を見にいきなさい。 勢いよく泣き出す七実のちいさな手に、香菜はまあたらしい鍵をそっと握らせる。
(約束のジュエリー)

 

 

わたしはずっと、人生にはピークがあって、加齢とともに坂を下っていくものだとばかり思っていた。けれど最近では思うのだ。生きていくことは、ゆっくりゆっくり、自分の花を咲かせていくことなのではないか。ピークも下りもない、私たちはその花のいちばんうっくしいときに向かって歩いているのではないか。そうしていのちの最後に、わたしたちはだれもが自分の花を、存分に咲かし切るのだ。
三十代でわたしは結婚し、娘と息子がひとりずついる。もうじき彼らもわたしたちの家から巣立っていく。わたしは花のことを家族に話したことはない。子どもたちも、夫も、ひとつずつ花を持っている。どんな花なのか、今はまだわからない。あと十年後か、二十年後か、あるいは一年後か、わたしの頭にも花が咲くときがくる。それを見るのはこわくはない。いったいどんな花なのか、見てみたい気持ちのほうがまさる。そのとき花がみごとに咲き誇るように、いちばんうつくしくあるように、わたしは今日も一日を過ごす。平凡で退屈ななんでもない一日を、せいいっぱいに生きる。
(さいごに咲く花)

 

 

山田じゃなきゃだめなんだ、と思わず口走った芦川さんの声がよみがえる。 私は本当は、そう言われる女になりたかったのだ。ずっとずっと。おまえじゃなきゃだめなんだ。うどん屋だからって、最高値が五百円くらいだからって、なんであんなに怒ったのだろう。なんで馬鹿にされたと思ったのだろう。あんなにたのしくリラックスして話した時間を、どうしてぶちこわしたのだろう。ほかの男たちが下心を抱いてしてくれたあれやこれやを、なんであんなふうに話せたんだろう。なんで恥ずかしくなかったんだろう。宗岡辰平の前で、どうして泣かなかったんだろう。どうして納得なんかしたのだろう。別れないと叫んだって辰平は私ではないほうを選んだのだろうが、でも、叫べばよかったかもしれない。
どうして私は選ばれなかったんだろう。どうしておまえじゃなきゃだめだと、だれも言ってくれないのだろう。だれにも言ってもらえないまま、こんな年齢になったんだろう。 うどんが。鼻水のせいで味がわからなくなり、ティッシュを取り出して鼻をかむ。うどんをすする。うどんが。こんなうどんが、「おまえじゃなきやだめだ」と言われているのに、私は。私ときたら。 涙でぐしゃぐしゃになりながら食事する私を、だれも見ていない。さっきと同じか、それとも入れ替わったのかわからない作業服の男性たちも、老婦人も、母子連れも、新しく入ってきたらしい学生服の男の子たちも、それぞれ自分たちの時間に没頭して、だれも私のことなど見ていない。
若いときは気づかなかったのだ、私のことなんか、だれも見ていないということに。だれかと比較することなく、だれにどう思われるかなんて気にすることなく、自分のことだけにせいいっぱいかまけていればよかったのだ。どうしてわからなかったのだろう。 私はうどんの汁をぜんぶ飲み干した。……。……。
ふだんだったら、みんな、ろくでもないやつだったし、不幸になっていればいいと思うのだけれど、このときはなぜか、みんなそれぞれの場所で、しあわせともふしあわせとも思いつかないような、そんな何気ないおだやかな日々を、だれかと懸命に過ごしていればいいなと思った。そんなふうに思っても、傷つかなかった。たぶん、私の胸にあらたな野心が生まれたからだ。おまえじゃなきゃだめなんだと言ってくれるだれかと、これから私は出会うのだ。うどんに負けるわけにはいかない。待ってろよ。そんな野心が。
(おまえじゃなきゃだめなんだ)

 

 

――結婚ってなんなんだろう?
この一カ月、耕平はずっとそう考えていた。結婚というのは、好き、とかいっしょにいたい、とかの、もっとずっと先にあるものなんじゃないか。その、ずっと先にあるものの正体を、じつはだれも知らなくって、知らないからこそ指輪や結納や式や新婚旅行なんかをするんじゃなかろうか。それらが結婚というものの正体をわかったような気にさせてくれるから。
(消えない光)

 

 

「婚約指輪には、あの、ダイヤモンドってのが常識なんでしょうか」 「いいえ。ほとんどの方がダイヤを選びますけれど、ダイヤでなければいけないという決まりはございません。ブルーサファイアを選ばれてもいいと思いますよ。価格もずいぶん抑えられます」スタッフは笑顔で言い、またもや指輪をいくつか並べる。 「でも、あの、そのブルーナントカは、ダイヤを買えない人が買うとか……」 「いえいえ、そうじゃないんです。サムシング・ブルーってお聞きになったことはないですか? 結婚式のときに花嫁は何か青いものを身につけると幸福になれるという言い伝えがあるんです。ダイアナ妃の婚約指輪は、このブルーサファイアだったんですよ」
(消えない光)