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あらすじ
武士の刀は殿のためにあるのではない。命にかえても守りたい者のためにあるのです。富商の娘を娶り、藩の有力派閥の後継者として出世を遂げる三浦圭吾。しかしその陰には遠島を引き受けてまで彼を守ろうとした剣客・樋口六郎兵衛の献身と犠牲があった。時が過ぎ、藩に戻った六郎兵衛は静かな余生を望むが、愚昧な藩主の企てにより二人は敵同士に仕立てられていく――剣が結ぶ男と男の絆を端然と描く傑作時代長編。

 

ひと言
2012年 直木賞を受賞の「蜩ノ記」。本も映画もよくて、いい作品を書く人だなぁと思っていましたが、昨年の末 病気で亡くなられたという訃報にびっくりしたのを覚えています。66歳という早すぎる死。この作品も不器用でも人としての矜持を持ち続ける誇り高き人を描き、読む人に感動を与えてくれた葉室 麟さん。
心よりご冥福をお祈りいたします。

 

 

圭吾はまた、六郎兵衛を裏切ることになるのではないかと嫌な気持になったが、それ以上は考えないようにして御用部屋を出た。 これからどうなるのかはわからないが、六郎兵衛を守っていこう、と圭吾は誓った。 すると、昨日、六郎兵衛が夕陽に照り映える紅葉を黙って見つめていた姿を思い出した。六郎兵衛のあの姿は何かに似ている、と思う。 何であろう、と考えていると、春になるとどこかから舞い込んで軒下に巣をつくる、―― 燕 が思い浮かんだ。燕は玄鳥ともいう。 (あの玄鳥はいつまで、わが屋敷にいてくれるのだろうか) 六郎兵衛はわが家の守り神となってくれるのではないだろうか、と圭吾は思いながら、ゆっくりと廊下を歩いていった。(九)

 

 

握り飯を食べ、竹筒の水を飲みながら、作之進が、こんな歌を知っているか、と訊いて詠じた。

 

 

吾が背子と二人し居れば山高み 里には月は照らずともよし

 

 

六郎兵衛には歌の深い意味はわからなかったが、作之進がこうして自分とともに過ごしている時を大切に思ってくれているのだ、と感じた。「よい歌でございます」 六郎兵衛が素直に言うと、洋之進はうなずく。「思いをかけた友と ともにいることができるのなら、ほかには何もいらぬということであろうな」 作之進は六郎兵衛を見つめた。
(十四)

 

 

六郎兵衛が頭を振る。「わたしはさようなことを教えた覚えはありませんぞ。武士の刀は主君であれ、家族であれ、おのれの命にかえても守りたい大切なひとのために振るうのだと思っております」「それは、わたしも同じことです」 圭吾はあえぎながら言った。「いや、違う。あなたがいま闘っているのは、殿に命じられたからにほかならない。すなわち、おのれの身分に縛られて刀を抜いたのです」 六郎兵衛は悲しげに言った。「武士には、ほかの生き方はないではありませんか」「いや、武士であることを捨てればよいだけのことです」 六郎兵衛はやさしい目で圭吾を見つめた。圭吾は六郎兵衛を見つめ返して、ゆっくりと言葉を発した。「さようなことを言われるなら、樋口殿こそ、武士を捨てればよかったではありませんか。自分ができなかったことをなぜ、わたしに言うのですか」「自分ができなかったからこそです。わたしは武士であることを捨てても何も無かった。虫けらのように死ぬだけでした。ですが、あなたには家族もいるし、学問の才もある。別な生き方ができたはずだ」 顔をゆがめて圭吾は答える。 「無理だ。そんなことができるはずがない」「いや、していただく。そのために今からあなたの刀を折る」言うなり、六郎兵衛は一歩踏み込んだ。
(二十六)