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あらすじ
初めて足を踏み入れた異国の日暮れ、夢中で友と語り明かした夏の林間学校、終電後ひと目逢いたくて飛ばすタクシー、消灯後の母の病室…夜という時間は、私たちに気づかせる。自分が何も持っていなくて、ひとりぼっちであることを―。記憶のなかにぽつんと灯る忘れがたいひとときを描いた名エッセイ。

 

ひと言
2018年の最初の一冊に選んだのは、私の好きな角田光代さん。以前にも書いたと思いますが、角田さんの本には「はっ!」とさせてくれるようなフレーズがたくさん隠されていて、そのフレーズに出会えることが宝探しのように楽しいから、角田さんの本が好きなんだと思います。
今年も多くの本のなかに隠された素敵なフレーズに出会えますように!
Amazon のカスタマーレビューに
【写真で見る限りごく普通の中年の女性。でもエッセイのなかでは付き合ってきた男性の話が頻頻繁に出てきてそれもとっかえひっかえって感じで、そんなにもてるようなイメージがなくてわからないもんです。】
と書かれた方がみえて、思わず笑ってしまいました。(角田さん ごめんなさい……)

 

 

祈る習慣のない私にとって、祈ることができるというのはたいへんにうらやましいことだ。日々くり返す祈りに、悪いことを思う人はいないだろう。悪いことだと祈りではなく呪いになってしまう。お祈りではだれもがちょっといいことを考えるはずだ。こうでありますように、とか、こうなれますように、とか。それは自分がなりたいもの、手に入れたいもの、つまるところ「幸福」というものの中身を、日々確認する作業ではないかと思うのだ。そうしたことをごく自然に、ごく日常的に行えることを、私はうらやましく思う。 
彼らの信じている神さまを信じろと言われても、私は信じないだろうし、この先、熱心に祈れる対象を自分が見つけるとも思えない。でも思うのだ。祈りというものが、意味のない行為であるはずがない。勝手に想像した彼らの祈り、私も私の愛する人も、今日と同じく平穏な明日を過ごせますようにというようなささやかな願いが、ずっとずっとくり返されて人の生活を支えているのではないか、なんて、四千年も前に造られた巨大な遺跡を仰ぎ見て、思ったりしたのだった。
(祈る男)

 

 

私はもともと人には魂があると信じているが、病院の夜は、それをなおさら強く信じさせるような雰囲気がある。人には魂があって、死ぬとそれが体から技けて、やってきた場所に還るのだと、病院の夜の静けさはなぜか私により強く信じさせる。病院というのは大勢の人が亡くなる場所だからかもしれない。前日ベッドから足をのぞかせていた人が、今日、いなくなる、それは、知らない人だとはいえ、単に何かが無になる、消える、ということだとは、私にはどうしても思えなかった。前日そこに横たわっていた人は、今日、どこかにいった、というように思えてならない。どこか、体を必要としない場所に。
魂があって、それが元いた場所に還っていったという考えは、人を救うと私は思う。身近な人にもう永遠に会えないかなしみはけっして癒えることがないが、でも、その命が無になったと思うよりは、ある場所に還って、そこにいると思ったほうが、生きている人間はよほど楽だ。昔、自宅で息を引き取ることが一般的だったころは、病院の夜に安らぎを覚え、魂の存在を信じるなんてある種異様なことだったろうけれど。 
検査の結果が思いの外悪く緊急入院した病院から、父が亡くなった病院に移りたいと言いだしたのはそもそも母だった。救急車に乗って、まるで引っ越しのように病院を移った。救急車の窓から、二十年前通い詰めた病院の、真っ黄色に染まった銀杏の木々と四角い建物が見えたとき、担架に横たわった母は、ああ、よかった、ここにこられた、とつぶやいた。こっちの病院のほうが大きくて安心だという意味だと私は思っていたのだが、今、そうではなかったのかもしれないとも、思う。薄々自分の病状を知っていた母は、どこかに還る父を見送った場所を、自分が旅立つ場所として選んだのではないか、その意味での「よかった」ではなかったか。家族で夜を過ごした、奇妙に静かで、かなしくて、安らかな場所にこられてよかったと、そう言ったのではなかったか。
(魂が旅する夜)