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あらすじ
沖縄県本島南部にはガマとよばれる自然洞窟がいくつもある。半世紀前の戦争中にこのガマは避難壕として軍・民双方に使用されていた。本書に登場する「アブチラガマ」も「轟の壕」もそうした避難所のひとつだった。ガマでなにが起こっていたのか。人びとの忘却の彼方にあったこれらガマの記憶をたどる石原教授たちの調査行は、取材開始から25年の歳月を要することになる。半世紀をへて、よみがえる真実とはなんだったのか?裁かれざる「犯罪」は放置されたまま、闇のなかに眠るのか。「洞窟の惨劇」はいま姿を現そうとしている。

 

ひと言
以前読んだ田村 洋三さんの「沖縄の島守」にも、この本の内容が引用されていたり「轟の壕」のイラストが使われたりしていて読んでみようと図書館に予約を入れてかりました。軍事機密を知る非戦闘員の住民に対して敵に投降を絶対許さない「軍官民共生共死の一体化」こそが、こんなにも激烈な沖縄戦における住民犠牲を生むことになった最重要「キーワード」であるという言葉がすごく心に残りました。

 

 

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轟の壕は、土地のことばでカーブヤーガマと呼ばれている。カーブヤーはコウモリのことで、ガマは自然洞窟のことである。コウモリがたくさん棲息していたからその上うな名がついたのであろうか。
(プロローグ 日本ノ兵隊 生カシマスカ 殺シマスカ)

 

 

一九四五年六月二十五日前後のことである。轟の壕で、米軍が住民の救出をしていた。そして、救い出した住民を現在の壕の出入ロ階段付近にひとまず集めた。救い出されたとたんに哀弱がひどく気を失ってしまう人たちもいたという。壕から救い出されたばかりの住民の前に米軍将校がやってきて、片言の日本語で話しかけてきた。「下二日本ノ兵隊イマスカ?」と尋ねられ、大勢の母親、年寄りが、口々に「たくさんいる、たくさんいる」と答えた。すると、そのアメリカ兵は「日本ノ兵隊 生カシマスカ 殺シマスカ?」と聞いてきた。すると、「殺せ! 殺せ!」といっせいに答えた。
(プロローグ 日本ノ兵隊 生カシマスカ 殺シマスカ)

 

 

『隈崎手記』によれば、島田知事は六月十五日に沖縄県庁の活動を停止し、職員の自由行動を許すと決定した。それから三日後の十八日から、この轟の壕は米軍の「馬乗り攻撃」をうけることになった。その攻撃をうけることは、もはや夜中であっても壕の外へは出られなくなるということである。四、五百人の避難民の食糧は底をつき、数日後に餓死者が続出し始めた。『隈埼手記』は当時の様子を以下のように記している。
「馬乗りして米兵は小銃や小型爆弾で執拗に壕内に向かって攻撃していたが、小川のある北側の壕の入口は岩壁が扉のようになっていたので、初めのうちは弾は壕内に届かなかったが、三日程して入口の岸壁は爆破されて大穴が開いてしまった。敵の手榴弾等が壕内で炸裂するようになったが、いちばん厄介なのは、ドラム缶の攻撃だった。 ガソリンの入ったドラム缶に爆薬を仕掛けたのを落とし込む。作裂と共に点火したガソリンが辺り一面に飛び散る。それを浴びて兵や住民たちが火傷し死傷した。全身焼け爛れた若い兵が痛さに耐えかねて川の中を這い廻り乍ら、『班長殿!班長』と、泣き叫んでいた。川縁には既に幾人かの屍体が転がった儘である。 焦熱地獄とは此の様なものか、目を背けずに居られなかった。
(第一章 沖縄県庁職員)

 

 

一九四四年二月、米機動部隊は日本の絶対国防圏内にあるマリアナ諸島のトラック島を皮切りにサイパン、テニアン島を空襲した。日本軍は、予想をはるかに上回る米軍の進撃速度に深刻な衝撃を受けた。そこで政府はただちに「決戦非常措置要綱」を発表したので、国民はいよいよ本土決戦が間近いことを察知し、緊張が高まった。 県内にあっては、他府県出身の県庁役人や寄留商人などの家族がいっせいに本土へ引き揚げはじめた。そして、一九四四年三月二十二日、サイパン島の第三一軍に続く第三二軍・沖縄守備軍が「皇土防衛」の最前線に位置付けられた沖縄に創設された。
四月以降、中国大陸や日本本土から続々と日本軍部隊が沖縄に移駐してきた。兵舎はほとんど準備できていなかったので学校校舎、村屋・字事務所・倶楽部(=すべて現在の公民館)、住民の生活している民家が、兵舎・糧秣倉庫・慰安所に使用され、「軍民同居」の形になった。そして、各部隊はただちに全島要塞化のため飛行場建設工事や陣地構築作業に取りかかったが、兵員不足のため、児童生徒、男女中等学校生徒をはじめ足腰の立つ住民を総動員せざるを得なかった。 軍部にとって、部隊の編制・動向、陣地という絶対に知られたくない重要な軍事機密が信頼できない住民(「地方人」)に知れ渡ることになった。このことは自国軍隊が自国民を殺害するという沖縄戦の悲劇をもたらす直接的要因となった。
(沖縄戦の経過)

 

 

軍事施設など深刻な被害を受けた日本軍は、補給路も断たれた状態なので、「一木一草戦力化すべし」という「現地自給」の方針を具体化していった。住民を巻き込んだ日米両軍の地上戦闘は、もはや時間の問題という情勢になった。そこで沖縄の日本軍は、「軍官民共生共死の一体化」を県民指導の方針として、地上戦闘に臨むことにした。これは、軍事機密を知る非戦闘員の住民に対しても敵に投降を絶対許さないことを意味しており、この「軍官民共生共死の一体化」こそが沖縄戦における住民犠牲の実相を知る最重要「キーワード」なのである。
(沖縄戦の経過)
 
沖縄戦の特徴を短くいえば、「不沈空母(1)の島をめぐる、長い(2)、激しい(3)、住民をまきこんでの(4)の地上戦(5)の結果、多くの住民犠牲(6)をだした戦闘」ということになる。
これに少しコメントをくわえると、 
(1)歴史的に軍隊や軍事施設と縁のなかった島々がなぜ日米最後の決戦場となったのか?
(答)太平洋戦争は大艦巨砲主義から航空主力主義に流れをかえた。日本軍は昭和十九年春からにわかに沖縄の島々に十五もの巨大な飛行場を建設、沖縄は「不沈空母の島」と化した。これが日本本土進攻をめざす米軍にとって絶好の標的となった。
(2)なぜ三ヵ月以上もの長期戦になったのか?
(答)大本営(軍中央)は沖縄守備軍(第三二軍)に本土決戦の準備のための時間かせぎを期待した。守備軍は突撃戦法をさけて地下陣地や洞窟にたてこもり持久作戦をつづけた。
(3)なぜ。″鉄の暴風″といわれるほどの激しい戦いになったのか?
(答)米軍は沖縄作戦の重要性から太平洋部隊の総力(総兵力約五五万)を沖縄本島に集中した。また日本の連合艦隊が壊滅したため米艦隊は艦砲射撃を陸上攻撃にふりむけることができた。対する日本軍は、空からの特攻機、海上からの特攻艇、陸上では爆雷を背負っての肉弾攻撃という全面的な特攻作戦で対抗したため予想以上の激戦となった。
(4)なぜ一般住民をまきこんだのか?
(答)劣弱な部隊を補強するために現地召集や防衛召集をおこなったほか、各地の飛行場建設や陣地構築のために老幼婦女子まで根こそぎ動員して戦闘に協力させた。最終的に四十数万の一般住民が孤島にとりのこされ、ついには守備軍の玉砕の道連れにされた。
(5)なぜ米軍は地上戦闘を徹底したのか?
(答)米軍の戦略目標は沖縄の航空基地を確保することであり、基地の安全確保のために敗残兵と避難民が雑居する地下洞窟をシラミつぶしに爆破し生き埋めにしていった。その結果、米軍は半世紀後も使用しつづける「太平洋の要石」を手にいれたわけである。
(6)沖縄住民の犠牲が多いのはなぜか?
(答)現在ほぼ確定された沖縄戦における日米両軍の戦死者数は、米軍約一万四千人、日本軍約七万五千人であるが、沖縄出身兵や一般住民はまだ推定しかできないがおよそ十四万人余になるだろうと思われる。いずれにしても沖縄住民(防衛隊や学徒隊もふくめて)の犠牲者が正規軍人のそれをはるかに上回ることほまちがいない。その数は沖縄本島だけをみると三人に一人、県全人口では四人に一人という割合になる。 しかも敵弾にやられただけではない。いわゆる「集団自決」の強要や、スパイ狩りを名目にした「住民虐殺」など、日本兵による忌まわしい事件があった。沖縄県民は根こそぎ動員されて軍の戦闘準備に協力させられたため軍の機密を知りすぎる立場にあった。米軍が上陸してくると軍にとって危険な存在となった。敵の手におちれば味方の軍事機密を漏らすおそれがある、すなわち沖縄住民は潜在的なスパイ容疑者ということになって、「敵に投降する者はスパイとみなして処刑する」という方針がでた。住民の側にも「生きて虜囚の辱めを受けず」の戦陣訓の影響で″捕虜″になることを拒む傾向もあり、犠牲をさらに倍加させることとなった。
(洞窟(ガマ)の闇の中から)