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あらすじ
範子―偶然目にした詩が、自分たちを捨てた父親の記憶を呼び起こした。陽菜子―意識不明の夫が毎月お金を振りこみ続けていた人物を訪ねて妻は高知へ。静かな町並みに響く路面電車の音。咲子―不倫と新たな恋。病気を告知され、自分の願いがはっきりわかる。麻理子―行方不明の親友と暮らしていたNYのアパートを、7年ぶりに訪れて。―その瞬間、4人の女性は何を決意したのか?『カフーを待ちわびて』から2年。日本ラブストーリー大賞作家が、揺れ動く女性たちを描いた4つの感動小説集。

 

ひと言
1つめの「天国の蠅」は、「えっ これ角田光代をかりたんだっけ」と思うような作品。2つめの「ごめん」を読み進めて『土佐の高知のちんちん電車、東はごめん、西はいの』というフレーズを目にしたとき、「あっ! この本 以前に読んだことがある」とやっと気づきました。
じつは同じ4編を収めた「夏を喪くす」というタイトルの文庫本を2015年7月に読んで、その感想をこのブログに書いていた のです。そのときの感想も「天国の蠅」を角田光代のように感じたと書いてあります。以前に読んだ本をまた借りて読むということがあったからこのブログを始めたのに……。でも本のタイトルは違うのに内容が同じ本なんて そりゃないんじゃない。

 

 

『土佐の高知のちんちん電車、東はごめん、西はいの』ゆうてね。西の終点は伊野、ゆうとこなんです。こっちは『ごめん』、で、こっちは『いいの』」 横断歩道を渡りながら、日枝は右左を指し示した。 「あやまられて、許しちゃってるんですか」 「そう。まっことあやまるがやったら、許しちゃる、いうことです」 ふたりは顔を見合わせて笑った。 ホテルの入り口までくると、陽菜子は日枝に向き合って礼を述べた。 「ほんとに今日はありがとうございました。夫がこんなときに……」 少し言い澱んでから、思いきって言った。「こんなときに、ごめん、なんですが。すっごく、楽しかったです」 日枝は日焼けした顔をほころばせた。 「いいの、いいの。それでいいの」 陽菜子も笑顔になった。……。
純一がよくなることなんて、このさきあるんだろうか。 可能性は低い、と医師からは告げられた。それでも、可能性はゼロだ、とは言われなかった。 〇・一パーセントの可能性。その微かな希望に、陽菜子はいっそ苦しめられていた。 よかった。生きてるんですね。 病室に入って口にした最初の言葉は、何も意図せずにこぼれ出たものだ。それが自分の真意なんだ、と思う。 けれど、このさきずっと歩んでいかなければならない道の遠さ。 その彼方に、あるかないかもわからない星の光。……。……。
手伝っていた若い男も帰って、おかみと陽菜子のふたりきりになった。陽菜子はずっと頬杖をついたまま、飽かずにおかみの顔を眺めている。あんまりみつめられて、おかみはとうとう笑い出した。「なんかあたしの顔についちゅうかね。お客さんみたいなきれいなお人に、そがに見られりゃあ、照れるがね」 少し据わった目でかまわずみつめながら、陽菜子はため息交じりの声で言った。 「おりょうさん、きれいだなあ、と思って」 「あらあら。お口がお上手やが。ほんならこの一本は、あたしのおごりにしちゃろ」 おかみは地酒の小瓶をひとつ開けると、陽菜子の空のコップに注いだ。もうひとつコップを取り出して、それにも注ぐと、「じゃ、乾杯」と、ちょっと持ち上げて飲み干した。細い喉がゆっくり動くのを、陽菜子はぼんやりと見ていた。
「だんながね。事故に遭っちゃって」 おかみの口からコップが離れるのを持って、陽菜子は唐突に言い出した。おかみはコップを両手で包みこんで、陽菜子のほうを向いた。「工事現場の監督してたんだけど、鉄骨が落ちてきて頭をやられて。意識不明で、ずっと眠ったまんま。何言っても答えないし、目も開けないし、動きもしない。ひとり息子だから、母親も狂ったようになっちゃって。事故から一カ月経ったんだけど、このさきどうなるのか、正直わかんなくて。死んでるみたいな、でも生きてるあの人を」コップに満たされた透明な液体をのぞきこみながら、陽菜子は吐き出すように言った。「このさき、あたしひとりで背負っていくの。重すぎるよ」 静かな空気が流れている。カウンターの板目に視線を落としたまま、陽菜子は動かなかった。安っぽい慰めの言葉をかけないおかみの優しさが沁みた。包みこむようなやわらかな沈黙のあと、陽菜子のコップの横に、空っぽのコップがすっと差し出された。かちん、と音をさせてコップを合わせると、「乾杯」とおかみが囁くのが聞こえた。 「おまさんの覚悟に」 陽菜子は顔を上げた。おかみは微笑して、 「いま、『あたしひとりで背負っていく』ってゆうちょったね。それがおまさんの覚悟ぜよ。だいじょうぶ、歩いていけるち。どげに重とうても」 そして、空のコップを掲げてみせた。……。
「で、あたし、浮気してました!」 おかみは驚きもしない。同じ笑顔で、うんうん、とうなずく。
 「だんなはすんごいいいヤツなのに、ずっとずっと嘘をついてたの。優しいから、なんでも許してくれるから。それに、甘えて。事故に遭ったときだって、実は彼氏と旅行中で」 うんうん、とおかみはうなずく。 「あたし、子供もできない体だし、浮気したって妊娠しないんだ、って調子にのって。あの人のことなんて、ちっとも考えてあげなかった」 おかみは、今度はうなずかなかった。 「馬鹿でしょ、あたし」 ひと言つぶやくと、目の前が薄ら暗くなった。そのままカウンターに伏せて、眠ってしまった。……。
屋台の外へ出ると、おかみは陽菜子の背中で揺れていたのれんをはずして空を見上げた。 「もう夜明けやき。今日も、いーい天気になるろう」 陽菜子は立ち上がって、おかみと一緒に空を見上げた。薄紫が次第に青色に変わりつつある空を眺めて、すぐ近くに海があることを思い出した。風にはほんのり潮の香が混じっている気がする。 「とっくに閉店時間、過ぎてますよね……すみません、さっさと帰ります。お勘定を」 すでに準備していたのか、おかみは割烹着のポケットから勘定書を出すと、そっと陽菜子に手渡した。 「0円」と書かれてある。陽菜子は大げさでなく目をこすった。 「そんな。あたし、すごい飲みましたよ。餃子も食べたし」 「えいわね。今日はあたしのおごり」 「でも、なんで」 おかみは答えなかった。 陽菜子は勘定書を握り締めると、バッグから財布を取り出して、勘定書の上に一万円札と小銭を載せた。「これ、受け取ってください」「だからえいき。また今度……」 「そうじゃなくて。もうこれが最後ですから。もう、振りこめないんですから」 一瞬、おかみの痩せた頬が微かにこわばった。そして、乱暴に握らされた手の中の金に視線を落とした。 一万二百十円。 陽菜子は、この店の赤提灯をみつけた瞬間に、帰り際に言おう、と決めていた言葉を口にした。 「領収書をください。宛名は、『杉本純一』で」 おかみはうつむいたまま、なかなか顔を上げようとしなかった。少し乱れた額の後れ毛が朝風にくすぐられるのを、陽菜子はじっと見守った。 おかみは両手で金を握り締めると、目を閉じた。何かが通り過ぎるのを待つように、しばらく目を閉じていた。そしてゆっくりとまぶたを開けると、陽菜子の目をまっすぐにみつめて、言った。 「ほんなら、ありがたくちょうだいさせてもらいます」 カウンターの上で、一文字一文字、おかみは丁寧に領収書を書いた。陽菜子はそれを受け取ると、壊れやすいものをしまうように、バックの中に入れた。 「これ、帰ったら杉本にみせます。驚いて、目を覚ますかも」 おかみはおだやかに微笑んだ。 言い訳はしない。 微笑は、そんなふうにも取れた。 陽菜子は「じゃあ」と、もう一度おかみに向き直った。 「もう行きます。ほんとに、ありがとうございました」 「こちらこそ。来てくださって、まっこと、ありがとうございました」 陽菜子は頭を下げたが、なかなか足が動かない。一番聞きたかったことを聞いていないからだ、とわかっていた。 陽菜子が躊躇するのを見て、おかみが囁くように言った。 「わかっちょります。ほんとは、聞きたいことがあるがやろう? このお金がなんながか」 陽菜子はひとつ、うなずいた。 「許してくれますか?」 もうひとつ、うなずく。真実だけを、知りたかった。 おかみは小さく息を吸いこむと、「流れた子供の供着料や、と」そう静かに言った。
大通りの赤信号で立ち止まった。 トトン、トトンと音がする。クリーム色の電車が近づいてくる。
 「嘘つき」 無意識に、陽菜子の唇が動く。その瞬間、電車のフロントガラスの真上に浮かび上がる行き先の文字が見えた。

 

 

ごめん

 

 

その行き先が、文字が、言葉が、陽菜子に向かって近づいてくる。どんどん、近づく。「いいの」 目の前をクリーム色の風がかすめて通り過ぎた瞬間、陽菜子は誰にともなくそうつぶやいた。
あたしのほうこそ。少し先の停留所に電車が停まる。やがて朝日に照らされたまっすぐな道を遠ざかっていく。その車体が見えなくなるまで、陽菜子は瞬きもせずに見送っている。
(ごめん)