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あらすじ
県民ニ対シ後世特別ノ御高配ヲ賜ランコトヲ。沖縄出身防衛召集兵1万3千人、軍属5万5千246人、県民3万8千754人が犠牲となった昭和20年の沖縄戦。県民への感謝を忘れなかった大田實中将は、日本軍への反感が強い沖縄でも、多くの人に愛される数少ない軍人の一人である。50回忌の今、遺族の初めての協力を得て明らかにされる大田中将の生涯。長編力作ノンフィクション。

 

ひと言
大田 實中将の三男 落合 畯(たおさ)さん【母の兄の家に子供がいなかったため戦後養子になった。自衛隊初の海外任務となった湾岸戦争後のペルシャ湾掃海派遣部隊の指揮官。米海兵隊の大尉が戦利品として持ち帰っていた海軍司令部壕に翻っていた少将旗が2012年5月27日の海軍記念日に落合さんに返還された】をはじめとする11人兄弟の大田一家の物語。この家族を通して描かれる大田中将だからこそ余計に涙を誘うし、大田中将の温かい人間味がより一層こちらに伝わってきました。

 

 

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前回2011年7月に訪れたときには見られなかった少将旗が旧海軍司令部壕内に展示されているということなので、次に沖縄を訪れた際、時間が許せば是非もう一度訪れたいと思いました。

 

 

大本営海軍部は(昭和十九年)四月十日、鹿児島―沖縄間の海上交通保護を主な任務にする第四海上護衛隊(略称・四海護)を編制したが、先に内示した肝心の沖縄方面根拠地隊(沖根)は、護衛隊が兼務するということでしかなかった。しかも人員は僅かに二千九十二人だった。……。
沖縄戦が重大な段階に差しかかった二十年五月二日、「戦訓速報第四号」として打った二項目の電報をここで紹介しておきたい。
「司令部ハ大ニ充実シ置クヲ要ス 之(沖縄戦)ヲ予期シツツ兼務ニテ 然モ海上護衛ヲ主トシタルガ如キハ大ナル過失ナリト認ム」 「遠カラズ戦場ナリトノ叫ビ大ナリシ沖縄ニ於テ防備ハ非常ニ遅レ 未着手ノモノ漸ク着手シ始メタルモノ……(以下欠)」 
沖根に戦備不十分の戦いを強い、武将に無念の電報を打たせる事態は、実は一年前に始まっていた。 大本営海軍部の南西諸島対策は、なぜ海上護衛が主で、沖縄防備が従になったのか。その背景には、兵員、武器、弾薬、食料、南方の重要資源を輸送する船舶の喪失量が、戦争第二年度(十七年十二月―十八年十一月)に入って、倍増していたという事情がある。……。 そこで、海軍部は絶対国防圈(十八年九月十五日設定)を死守する意味からも、二年度の終わりに近い十八年十一月十五日、天皇直属の海上護衛総司令部を新設、司令長官には古賀峯一連合艦隊司令長官より先任の及川古志郎大将を配した。……。
沖縄本島はおおよそ、真ん中がくびれた瓢箪型の島で、くびれた部分から北は山岳森林地帯だから、敵が上陸して来るのは、それ以南と見られた。そこで北部は独立混成第四十四旅団(熊本)に委ね、中部・中頭に第二十四師団(旭川)、首里、那覇の北側に第六十二師団(京都)、南部・島尻地区に第九師団(金沢)を配し、米軍が何処から上陸を試みても水際で撃退する決戦体制を敷いた。
ところが米軍が十月二十日、フィリピン・レイテ島に上陸すると、大本営は台湾の一個師団を比島に投入、手薄になった台湾防備の補充として、三十二軍の反対を押し切り、沖縄から第九師団を抜いてしまう。 三十二軍は一兵団の回復を要望したが、容れられず、止むなく作戦を根本的に変更する。それは二十四師団を九師団の抜けた後詰めに入れ、中部・中頭を放棄するというもので、最初の水際決戦は中止、島尻に主力を置いての持久作戦にならざるを得なかった。 そればかりではない。三十二軍は弱体化した兵力の補充を住民に求めた。防衛召集、学徒隊など、県民に大きな犠牲を強いた沖縄戦固有の悲劇は、大本営陸軍部の、この「大ナル過失」から始まるのだ。
(第十七章 大ナル過失)

 

 

一方、摩文仁に後退した牛島軍司令官は、三十二軍主力の撤退が完了したので、ここでやっと海軍部隊の島尻南部への撤退を命令した。これに対し、大田司令官は五日、忙しい戦況報告の合間をぬって、大要次のように返電している。
「海軍部隊は最精鋭の陸戦隊四個大隊を陸軍の指揮下に入れ、首里戦線で遺憾なく敢闘したことはご承知の通りである。また今次、軍主力の喜屋武半島への撤退作戦も、我が海軍部隊の奮闘により既に成功したものと認める。本職は課せられた主任務を完遂した今日、思い残すことなく残存部隊を率いて小禄地区を頑守し、武人の最期を全うせんとする考えである」……。牛島司令官は、親書まで送って後退を促したが、時期既に遅く、大田司令官の決意も固く、小禄死守を見守るほかなかった。 沖連陸の生還者は「大田少将のあの断固たる姿勢には、後退が早過ぎるとして小禄に復帰させられた煮えくり返るような怒りが背景にあった」と□をそろえる。……。
沖根司令部が戦闘指揮所として使っていた宇栄原の「羽田山」(元・護部隊本部)も、米軍戦車の「馬乗り攻撃」を受ける切迫した戦況となり、司令官と幕僚は同夜、豊見城七四高地の元の司令部壕に戻る。
馬乗り攻撃とは、洞窟陣地の頂上を敵が占領し、攻撃を加えて来る状態で、上から穴を開けてガソリンを流し込まれ、入口から火炎放射器で攻撃されると、絶対に助からない。
(第二十二章 小禄の死闘)

 

 

防衛庁防衛研究所が所蔵している「昭和二十年六月 南西諸島方面電報綴」によれば、大田司令官の「沖縄県民斯ク戦ヘリ」の電報は、六月六日二十時十六分、沖根司令部発となっている。 しかし、戦況報告を優先し、「閑送」(暇な時に送る)扱いにしたせいか、受信時間は第一回が「七日一七三二」。これは通信状況が悪く、一部が届かなかったので、「七日一八〇五」に再送している。
(第二十三章 沖縄県民斯ク戦ヘリ)

 

 

司令部壕が包囲攻撃される中で、大田司令官は六月十一日が沖縄方面根拠地隊の最後の日になるのでは……と考えたようだ。この日午後一時三十七分、三十二軍の長参謀長宛に次の作戦特別緊急電報を発した。
「敵後方ヲ撹乱又ハ遊撃戦ヲ遂行スル為 相当数ノ将兵ヲ残置ス 右将来ノ為一言申シ残ス次第ナリ」 人命を尊ぶ少将の頭に、死なばもろともの全員玉砕の考えはない。可能な限りの部下を包囲された陣地から脱出させ、後方撹乱や遊撃戦を命じたが、これらの兵士が戦線離脱や脱走などと誤解されないようにとの心遣いだった。そして同夜、牛島軍司令官宛に、六日に続いて二度目の訣別電を発信する。
「敵戦車群ハ我司令部洞窟ヲ攻撃中ナリ 根拠地隊ハ今十一日二三三〇玉砕ス 従前ノ厚誼ヲ謝シ貴軍ノ健闘ヲ祈ル」   
(第二十三章 沖縄県民斯ク戦ヘリ)

 

 

大田中将の遺骨が自宅に帰った時、かつ夫人が言った「御法事は三十三回忌に沖縄で」の、その時は昭和五十二年に巡って来た。回忌法要に先立つ三月十六日、夫人は中将の遺骨を抱いて沖縄を訪問、豊見城の「海軍戦歿者慰霊之塔」に納骨した。夫人の気持ちは同日、沖縄海友会主催の納骨式で語られた言葉と三首の和歌に込められている。
「主人は、沖縄の土になるんだ、と言って出撃しました。部下の方が慰霊之塔に祀られているのに、自分だけが遺族の元に居るのを心苦しく思っていたでしょう。沖縄に納骨されることが故人の遺志でもあり、念願が叶えられて嬉しく思います。故郷に帰した思いで一杯です。夫も部下と一緒できっと喜んでいることでしょう。どうぞ戦友と共に安らかにお眠り下さい」

 

 

「亡き夫の 遺骨をひざに 飛びゆけば 南の鳥は 碧く澄みたり」
「亡き部下の みたましづもる 沖縄に かへり給ひて 永久にやすけく」
「島人の まことあふるる みなさけに 笑顔の浮かぶ 彼岸の彼方」
三十三回忌の慰霊法要と、海友会が大田中将の遺徳を偲び「沖縄県民斯ク戦ヘリ……」の電文全文を刻んだ「仁愛之碑」の除幕式は、同年五月二十七日の旧海軍記念日に関係者約三百人が参列して慰霊之塔前で営まれた。
(第二十八章 それぞれの沖縄)