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あらすじ
明治二十年。新時代の躍動とともに、ノボさんこと正岡子規は二十歳を迎えた。アメリカ渡来のべーすぼーるに夢中の青年は、俳句・短歌・小説・随筆、あらゆる表現に魅入られ、やがて日本の文芸に多大な影響を及ぼす存在となる。子規は常に人々に囲まれていた。友人、師、家族から愛され、子規もまた彼らを慕った。そしてこの年、東京大学予備門で運命的な出会いを果たす。同じく日本の文学の礎となる、金之助こと夏目漱石である。

 

志をともにする子規と漱石は、人生を語り、夢を語り、恋を語った。明治三十五年、子規の余命が尽きるまで、誰もが憧れた二人の交際は続く。
子規と漱石の友情を軸に、夢の中を走り続けた人、ノボさんの人生を描く。

 

 

ひと言
今年の9月19日は「糸瓜忌」を失念してしまい、子規を想うことなく過ごしてしまいました。数日してから思い出し、図書館でまだ読んだことのなかったこの本を借りました。
旧暦カレンダーで1902年9月19日(金)先勝を調べてみると旧暦の8月18日。ただ亡くなったのが午前1時だから17日の月明に で何らおかしくはないし、生まれたのがまだ旧暦が使われていた慶応3年の9月17日。それより何よりも17文字の俳句に命をかけた子規へのオマージュとして十七という言葉を使った虚子。
「子規逝くや 十七日の月明に」という句がこころに響きます。
今年は漱石 1867年2月9日(慶応3年1月5日)と子規 1867年10月14日(慶応3年9月17日)の生誕150年の年。漱石が子規に読んでもらいたかったであろう「坊ちゃん」を読みかえしてみたくなりました。

 

 

子規は文机に座って一枚目の紙に文集の総題を書いた。″無伺有洲(むこうじま)七草集″
万葉集の山上臣憶良の連作二首、
″秋の野に咲きたる花を指折りかき数ふれば七種の花″
″萩の花尾花葛花撫子が花女郎花また藤袴朝顔が花″ からの発案である。
この二首は万葉集の中でもきわめて珍しい形式になっている。子規は万葉の時代の歌人で山上憶良を特に評価していたから自分にとって初めての一人の創作による文集にこの名を付けた。 子規は総題を眺め満足そうにうなずいた。
(初恋の人。子規よどこへでも飛べ)

 

 

″漱石″とは『晋書』から出典した″漱石枕流(ちんりゅう)″から来たもので、本来は″石に枕し、流れに漱(くちすす)がん″という謙虚な暮らし、さまざまなことに耐えながら物事を学ぶ姿勢をいう言葉だが、或る時、西晋の孫楚という人物がこれを″石に漱ぎ流れに枕す″と間違えて言った。それを注意されると、「いや、石に口を漱ぐのは歯を磨くためで、流れに枕するのは耳を洗うためだ」と主張して自分の誤ちを認めようとしなかった。 この故事から、自分の失敗を認めず、屁理屈ばかりを並べて言い逃がれする、負け惜しみの強い高慢な態度、人を意味するようになった。
(血を吐いた。あしは子規じゃ)

 

 

子規は去年の夏、向島に行き、そこであの界隈を散策し、目に映ったものをそのまま書き留めるようにすると、決りきった慣用句で美文を仕上げるより、情景そのままが浮かび上がってくるようだ、と評した。 「雨がしきりと降る日に渡し舟に乗ったのじゃがえらい美しゆうて水墨画の中におるようじゃった」 子規はなつかしむように金之助に話した。 「長命寺には行かれたかの?」「いや、あの辺りは桜の季節が舞台のようになると聞いている」「長命寺には美味い桜餅を食べさせる店がある」「ああ、それは知ってるよ。よほど美味しかったのかい?」「おう。なかなか甘うて……」 子規は何か思い入れがあるようにうなずいた。 金之助は思ったより長居をしてしまい、それを詫びて子規の許を引き上げた。 金之助か部屋を退出してほどなく、子規はさっそく「七草集」を手にとり、同じ紙包みの中に入っていた金之助の手紙を読みはじめた。 なかなかよくできた七言絶句であった。
 一首一首を読んでいくうちに、月香楼、長命寺の文字を見つけ、金之助が「七草集」を丹念に読んでくれているのに頭が下がった。 八首日から九首目を読んで子規の手紙を持つ手が震え出した。
長命寺中餅をひさぐ家 墟(ろ)に当たる少女美しきこと花の如し 芳姿(ほうし)一段憐れむ可き処 別後君を思うて紅涙加わる
―― さすがに夏目君じゃ。あの文集の中であしが一番力を入れた思いが何かわかってくれとる。
子規はおろくへの想いをいくつかの箇所にさり気なく入れておいた。 それを金之助は即座に察知していた。九首を読み終えて、子規は文末に目を止めた。そこに”辱知 漱石妄批”とあった。子規は金之助が″漱石″を使ったことを大変に満足した。
(血を吐いた。あしは子規じゃ)

 

 

「おう、いいものを見せようわい」 「何でしょうか」 ノボさんは筆を手にとると新しい半紙を出して、そこに文字を書いた。 ″子規″とある。 秉五郎がそれを見て首をかしげた。 「シ、キ、と読む。時鳥(ほととぎす)のことじゃ。あしはこの初夏から名前を正岡子規とした。五月の或る夜、血を吐いた。枕元の半紙に血がにじんでおった。それを見た時、時鳥が血を吐くまで鳴いて自分のことを皆に知らしめるように、あしも血を叶くがごとく何かをあらわしてやろうと決めた。それで子規じゃ」
 秉五郎は″子規″の文字を見た。 話を聞いて、秉五郎は泣きそうになった。それほどまでの思いで、この人は何かをしようとしている。これまでこんな人に逢ったことは一度もなかったし、未熟な自分が恥かしく思えた。
(血を吐いた。あしは子規じゃ)

 

 

大原恒徳は三度、正岡の家にやって来て、その話を子規にした。 子規はその提案を受け入れなかった。
「それは到底できんぞなもし。あしはやりたいことがようけあるぞな。いろんな本を読んでみたい。それを読むことで少々身体が、あしの生命が減ってもかまんのです。勿論、あしは朝に道を聞けば夕に死んでもかまんという聖人ではないし、高尚な人間にむかうためにすべてを投げ打てる徳のある者でもないが、でもあしは猿ではないし、鸚鵡(おうむ)でもない、上京して以来、いろいろ迷っていたが数年前からようやく本を読む、物を識ることの悦びがわかりはじめた。そうやって根を詰めて生きれば身体に良くないことも承知しとる。だからといって一年休学なり廃学して、五年なり十年長生きをしたとしても、その一年の間、自分は決して満たされることがないぞなもし」 子規の中にようやく自分が何をすべきかが固りつつあった。
(血を吐いた。あしは子規じゃ)

 

 

漱石は以前聞いた、或る話を思い出した。 「これは山に登る人から聞いたんだが、山登りというのは、その山が高ければ高いほど途中の道は下りが多いそうだ」 子規は漱石の顔をじっと見ていた。 「興に乗っている時はきっと登山でいう登りのようなものさ。さして考えることもなく足が進むのさ。筆が止まる時は下りの道を進んでいて、ちっとも進んでない気がするんだと思うよ。高い山ほど下りが多いというのが本当なら、君が今書いているものが前より高いものという証拠かもしれないよ」 「なるほど…」 子規が漱石を見て白い歯を見せた。 「そうか、今は下りの道を歩いとるから進んどるように思えんのじゃ。きっとそうじゃ」 子規は漱石の言葉に得心がいったという顔をした。
(漱石との旅。八重、律との旅)

 

 

「あしは、いつか意中の人に逢うのを待っとります」 子規はこう言っていた。 あの頃、漱石には秘かに恋情をかたむけていた女性がいた。 相手は女子高等師範付属女学校に通うハ歳下の女性で、その美しさは一高生の間でも評判だった。その上彼女は学業成績も優秀で、いつも首席であった。名前を大塚楠緒子(くすおこ)といった。彼女の方でも一高で優秀であった夏目金之助の存在は知っていたと思われる。後に彼女は漱石の一歳下の友人の小屋保治と結婚した。小屋は大塚家養子となり彼女を妻取った。漱石の松山行きがあわただしく決定したのは、その結婚が原因だと噂がひろがった。 漱石の意中の人が、その楠緒子であったかどうかは定かではないが、楠緒子が三十六歳の若さで亡くなった時、漱石は日記の中で彼女の死のことを綴り、悼句を日記にしたためている。

 

 

有る程の菊抛(な)げ入れよ棺の中

 

 

これほどの激情的な句をあとにもさきにも激石はこしらえていない。 その激石だからこそ、子規の気持ちがわかり過ぎるほどわかるのである。子規は女性について語ることはほとんどなかった。だから、あの日は子規が他人にたった一度自分の真情を吐露したのだと漱石は思っていた。 「そいか、一人で暮らすより二人で、家族で暮らす方が平穏でいいぞなもし」子規の言葉に漱石は返答せず、うなずいた。
(子規庵、素晴らしき小宇宙)

 

 

九月十八日は、子規は朝から痰がなかなか切れなかった。容態もかんばしくないのは見ていればわかった。 宮本医師が呼ばれた。隣りから陸羯南も来た。碧梧桐も呼ばれた。 碧梧桐はやって来ている顔ぶれを見て、律に虚子を呼ぶのかと尋ねた。するとすぐに子規が言った。「高浜も呼びにおやりや」その一言で子規自身も何かを感じているのが周囲に伝わった。 碧梧桐は羯南の家へ行き電話を借りて虚子を呼んだ。 部屋に戻ると、子規が右手をやや上にむけて筆を使う仕草をした。碧梧桐と律が手伝って画
板に貼った唐紙を目の前にたて子規に筆を持たせた。 子規はその唐紙の中央に句を書いた。

 

 

糸瓜咲て痰のつまりし仏かな

 

 

書き終えると手から筆を放した。筆が落ちるのを碧梧桐が拾った。 子規は痰を切ろうと喉を鳴らし、これを律が拭った。 五分後、子規の手がまた動いた。 碧梧桐がその手に筆を取らせた。律が画板を子規の前にたてた。同じ唐紙の一句目の左にさらに一句書いた。

 

 

痰一斗糸瓜の水も間に合はず

 

 

そうしてまた手から筆を放した。放すというより零れ落ちるふうだった。 また五分後、子規の手が動いた。次は右端に一句書いた。

 

 

をととひのへちまの水も取らざりき

 

 

今度は子規がはっきりと筆を投げ捨てたのがわかった。 転がった筆の墨が敷布を染めた。 この三句を書き終えるまで子規は一言も発しなかった。勿論、周囲の人々も無言でこれを見守った。聞こえていたのは子規の痰を切ろうとする荒い息遣いと咳と最後に筆が敷布に転がった折のかすかな気配のみであった。
辞世の句であることはあきらかだった。へちまの水は旧暦の八月十五日に取るのをならいとする。それができなかった無念を句に詠んだのだ。 子規は書き終えた唐紙を一瞥もしなかった。かわりに周囲の者がそれを覗き込んだ。 文字は所々かすれてはいるがしっかりした筆致であった。ただ最後の一句の仕舞いの文字が力なく尾を引いていた。
(子規よ、白球を追った草原へ帰りたまえ)

 

 

ハ重と律は子規を見つめ、やや左に傾いていた身体と蒲団からはみ出していた足に気付き、それを戻した後、二人して子規の上半身を持ち上げるべく子規の両肩をハ重の両手が握りしめ顔を上げるようにした。 その時、ハ重は息子の両肩を抱くようにして言った。 「さあ、もういっぺん痛いと言うておみ」 その言葉は九月の明る過ぎるほどあざやかな月明かりが差す部屋の中に透きとおるような声で響き渡った。 ハ重の目には、それまで客たちが一度として見たことのない涙があふれ、娘の律でさえ母を見ることができなかった。その場にいた碧梧桐は黙したままうつむいていた。 虚子は根岸の路地を歩きながら、先刻、碧梧桐と鼠骨に子規の死を報せるために急いだ路を淡々と歩きつつ、あの時にあまりに空が明るいのでつい仰ぎ見た秋の月を思い出していた。
子規の死を己の中に刻もうと発句したものをもう一度反復した。

 

 

子規逝くや十七日の月明に

 

 

(子規よ、白球を追った草原へ帰りたまえ)

 

 

……。霜が白く空が重い日だ。私はヨーロッパから帰った時にはじめて君の墓へ行く。その時君はすでに泡ではなく一本の杭の棒になっているのだろう。私はその杭の周りを三度回る。花も捧げず水も手向けず、ただ君の杭を三度回って去ろう。その時、私は君の土臭い影をかいで、君の定かではなくなっているものが何なのかを見てみよう。
漱石の心底には子規の死に対する哀切がみちていた。 子規以外には語ってもわからぬものが二人の間にはたしかに存在していた。漱石は明治三十六年に帰国し、東京帝国大学文科大学、明治大学の講師を務めながら明治三十八年に子規の創刊した「ホトゝギス」に最初の小説「吾輩は描である」を発表した。明治三十九年四月に「坊っちやん」、九月に「草枕」を発表し、一躍その文名を上げた。 その後、朝日新聞社に入社し、「虞美人草」「三四郎」「こころ」と日本近代文学を代表する小説を世に出した。
(子規よ、白球を追った草原へ帰りたまえ)