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あらすじ
たとえば、毎日寝る前に一編。ゆっくり、読んでください。豊饒で多彩な短編ミステリーが、日常の倦怠をほぐします。意外性と機知に富み、四季折々の風物を織り込んだ、極上の九編。読書の愉楽を、存分にどうぞ。

 

ひと言
最近は東野圭吾もマンネリ気味かなと思って読み始めましたが、「容疑者Ⅹ」に近いぐらいに読者の予想を裏切ってくれました。さすが東野圭吾というような作品でした。個人的には「今夜は一人で雛祭り」と「水晶の数珠」が好きかな。京都の右京区、左京区は御所から見てなのに、衣笠の方が左大文字…。そら、まちごう人も多いんとちがいまっか。

 

 

そこには大きな雛人形が飾られていた。「この花の位置はおかしいんじゃないのかな。左右が逆だと思うんだけど」上から五段目の両端を指しながら尋ねた。左右で違う種類の造花が飾られている。 「桜と橘ですね」女性が確認した。……。「いや、でも、逆じゃないですか。右に桜がある」三郎は桜の造花を指差した。 女性ホテルマンは徴笑み、頷いた。 「この場合の左右というのぱ、向かってではなく、御所から見て、なんです。別の言い方をすれば、人形たちにとって左か右かということです」……。「……。あのサトウハチローでさえ間違えていたようですから」 「サトウハチロー?」 「有名な雛祭りの歌がありますでしょう? あの歌の作詞をしたのがサトウハチローです」 「そうなんですか。間違えていたというのは?」 「歌の三番に、『赤いお顔の右大臣』という歌詞が出てくるのを御存じでしょうか。あの人形のことです」女性ホテルマンが指したのは、四段目の向かって右に置いてある人形だ。弓を手にし、矢を背負っている。白い髭を生やしているが、たしかに顔が少し赤い。 「その歌のどこが聞違いだと……あっ」三郎は口を開けた。 「おわかりになりました?」 「左右が逆なんだから、あれは右大臣ではなくて左大臣なんだ」 「そうなんです。見ておわかりだと思いますが、右の人形より年配ですよね。当時は右よりも左のほうが位が上とされていたからです」 「そうか。右大臣よりも左大臣のほうが偉いのか」 「そういうことです。ただ、もう少し詳しくいいますと、じつはあの人形は左大臣でもないんです」 彼女の言葉に三郎は目を丸くした。「えっ、そうなんですか」 「よく御覧になってください。弓矢を持っていますよね。彼等は警備を担当する武官なんです。左大臣や右大臣より、もっと位の低い立場です」 「そうなんだ。全然知らなかった」 「歌が有名になりすぎて、今では右大臣、左大臣で通っていますけどね」女性ホテルマンは笑みを浮かべたまま、視線をさらに上げた。
「じつをいいますとサトウハチローは、もう一つ大きな間違いを犯しています」 「えっ、何ですか」 「『お内裏様とお雛様』という歌詞です。じつはそういった呼び名はなくて、正式には男雛と女雛、二つを合わせて内裏雛といいます」 「へええ、そうなんだ。いやあ、初耳だなあ。私も、お内裏様とお雛様だと思ってました」 「歌の影響って怖いですよね。後にサトウハチロー自身も間違いに気づいて、大いに後悔したそうです。生涯、あの歌を嫌っていたとか」 「ふうん、気の毒だけど面白いや」三郎は男雛と女雛を眺めながらいった。やがて違和感を覚えた。
「あれ、おかしいぞ。あなたはさっき右よりも左のほうが上だとおっしゃった。でも男雛は向かって左側、つまり彼等にとっての右側に座っている。これはどういうことだろう」 「いいところにお気づきになられました」女性ホテルマンは右手を小さく振った。「おっしゃる通りなんです。だからかつては男雛は左側に置かれていました。今も京都などではそうです」 「それがどうして逆に?」 「大正天皇の影響だそうです。日本で最初に結婚式を挙げたのは大正天皇ですが、その際に右側にお立ちになりました。そこで雛人形の配置もそうするようになったとか」 加奈子は京都で生まれ育った。彼女が左近の桜、右近の橘を知らなかったとは思えない。雛人形における配置について、三郎の母が間違っていることにも気づいていたのではないか。……。 雛祭りには毎年のように着飾った真穂の姿がカメラに収められている。その中に必ず一枚、姿見の前で。ポーズを取っている写真があるのだ。さらによく見ると姿見には、雛人形が映っている。鏡だから左右が逆だ。 逆だから、桜と橘の位置も正しい。そして男雛と女雛の位置も逆になる。 かつては男雛は左側に置かれていました。今も京都などではそうです――女性ホテルマンの言葉が蘇った。 
(今夜は一人で雛祭り)

 

 

「墜落騒ぎ?」 そんなことがあったのか。アメリカにいたので全く知らなかった。ふだん日本のニュースには気をつけているのだが。ホームで列車を待つ間に、直樹はスマートフォンで調べてみた。すると記事はすぐに見つかった。民間の小型飛行機が新幹線の線路上に墜落したらしい。そのせいで上下線共にストップし、最大で六時間の遅れが出たということだった。 さらに日付を見て、はっとした。先月の十五日の出来事だった。真一郎の誕生日パーティが行われた翌日だ。当初の予定では、アメリカ行きの飛行機に乗るため、直樹は朝早くの新幹線に乗るはずだった。 ということは――。 あの時東京駅から引き返していなければ、直樹はアメリカ行きの飛行機に乗れず、オーディションを受けることもできなかったことになる。 ふっと口元を緩めた。運がいいのか悪いのかわからない。もしそうなっていたら、今頃はまだ役者になる夢を捨てていなかっただろう。オーディションを受けてさえいれば、と悔しがっていたはずだ。あんな親父の誕生日パーティなんか、放っておけばよかったと後悔していただろう。
そこまで考えたところで、何かが頭の中で弾けた。 なぜ真一郎は直樹がパーティに出席することを把握していたのか。なぜ直樹の電話番号を知っていたのか。そして、なぜあのタイミングで電話をかけてきたのか。 直樹はポケットを探り、水晶の数珠を取り出した。 想像を巡らせてみる。もしかすると真一郎は、直樹に電話をかけてきた時点で、二十四時間以内に起きることを知っていたのではないか。……。 もしそうだとしたら、真一郎はたった一度の奇跡を、直樹のために起こしてくれたということになる。息子に夢を叶えさせてやりたいがために。あれほど反対していたのに。 胸の奥が熱くなった。直樹は遺言状の最後に書かれていた文面を思い出した。 この力の真の素晴らしさに気づいた時、おまえはひと回り大きな人間になれるだろう――。 その意味がわかった。自分のために使うことだけが、数珠が導く道ではないのだ。 父の遺志を無駄にするわけにはいかなかった。それに報いずして、水晶の数珠を受け継ぐ資格などない。軽々に夢を捨てようとした自分の愚かさに腹が立った。
直樹はスマートフォンを取り出し、急いで貴美子に電話をかけた。 「何? どうしたの?」姉は心配そうに尋ねてきた。 「予定を変更する」直樹は大声でいった。「もう一度挑戦する。しばらく日本には帰らない。いや、成功するまでは絶対に帰らないっ」 貴美子が何かいったが、電話を切った。そして到着した列車に、大股で乗り込んだ。
(水晶の数珠)