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あらすじ
1977年5月、圷歩は、イランで生まれた。父の海外赴任先だ。チャーミングな母、変わり者の姉も一緒だった。イラン革命のあと、しばらく大阪に住んだ彼は小学生になり、今度はエジプトへ向かう。後の人生に大きな影響を与える、ある出来事が待ち受けている事も知らずに。父の出家。母の再婚。サトラコヲモンサマ解体後、世間の耳目を集めてしまった姉の問題行動。大人になった歩にも、異変は起こり続けた。甘え、嫉妬、狡猾さと自己愛の檻に囚われていた彼は、心のなかで叫んだ。お前は、いったい、誰なんだ。
(2015年 第152回 直木賞、2015年 本屋大賞 2位)

 

ひと言
上下巻合わせて730頁ほどの長編小説。なかなか読み進まなかった上巻に対して、下巻は一気に読み進みました。読み終えて、上巻の伏線があるからこそ 下巻がこんなに引き寄せられるんだろうなぁと思いました。とても読みやすい文章で、納得の直木賞、本屋大賞 2位の本でした。

 

 

エジプトには、「IBM」という言葉があると言われている。Iは「インシャアッラー」、「神の思し召しのままに」という意味だ。例えばジョールが遅刻してきたとする。父がどうして遅刻するんだと怒ると、「インシャアッラー」、神がそう望んだのだ、と言う。Bは「ブクラ」、「明日」だ。ジョールに車を洗っておけと命令すると、「ブクラ」、明日やる、と言う。Mは「マレーシ」、「気にするな」だ。あの大人しい父を怒らせるという離れ業をやってのけた後に、ジョールが言うのは、「マレーシ」、「気にするな」である。父はしばらく怒っているが、ジョールが笑顔で自分の肩を叩いて、「マレーシ」と言い続けるのを聞くうち、いつしか笑ってしまう。エジプシャンは、大体こんな風だった。
(第二章 エジプト、カイロ、ザマレク)

 

 

「サトラコヲモンサマ、なあ。」おばちゃんの目には、涙が溜まっていた。だが、泣いているのではなかった。……。「なんでも良かったんや。うちに来る人たちのためになるなら。」……。親が残した借金に苦しめられている人。夫の暴力に怯えている人。家が全焼して、生きてゆく意味を見出せない人。どんな人にも、おばちゃんは、平等に接していた。話を聞き、うなずき、いつまでもその人に、寄り添っていた。「うちに来る人たちが、信じられるものなら、何でもな、良かったんや。」おばちゃんは、様々な言葉をはしょった。……。「じゃあ、なんで、サトラコヲモンサマやったん?」サトラコヲモンサマは、何なのだ?「見てみ。」おばちゃんが顎をしゃくった方を見ると、さっきの黒い描が眠っていた。……。「うちの家によう来てたチャトラがおったやろ。覚えてるか?」覚えていた。おばちゃんの家に来たたくさんの猫たち、中でもチャトラの猫は、よく見た。それはどこにでもいる、普通の猫だった。何の神々しさもない、ただの猫だった。「あの子が伸びをしたら、お尻の穴が、ぶぶぶって震えるねん。それが可愛くてなぁ。それを見てたら、おばちゃん、なんでもどうでもよくなるんよ。」……。 「チャトラの肛門ってこと?」僕は、恐る恐るそう言った。「せや。」「サトラコヲモンサマ?」「そう。」……。それこそが大切だった。立派なものであってはいけない。こちらを畏怖させるものであってはならない。この世で起こっている様々な出来事を、「どうでもよくなる」と、思わせるもの。……。 「あの日姉ちゃんに言うたのは、そのこと?」僕は、姉の部屋の、閉ざされた扉のことを思い出した。……。「愛されない」と思うことを、「足りない」と飢えていることを、姉が自分のせいにすることはないように、だから姉にとって「ザトラコヲモンサマ」は必要なものだと、おばちゃんは思ったのだ。……。「あの子には、自分で、自分の信じるものを見つけなあかん、て言うたんや。」
(第四章 坏家の、あるいは今橋家の、完全たる崩壊)

 

 

爆撃を受けて2ヶ月後、おばちゃんは焼土で終戦を迎えた。おばちゃんは焦土を歩き回っていた。自分の家のものは何も残っていなかったが、一冊の辞書を見つけた。一面焼け野原であった場所で、紙で出来た辞書が残っていることを奇跡のように思ったおばちゃんは、それを大事に取っておいた。……。 別れ際、おばちゃんは大切にしていた辞書を、「私だと思ってください」と、刺青の人に渡したそうだ。すると刺青の人は、こんな大切なものをもらうことは出来ません、と言った。「おばちゃんな、じゃあこの中の1ページだけを私にください、て言うたんやて。」この頃になると、夏枝おばさんはだいぶ、饒舌になってきていた。「あなたが選んだ言葉を、私のものにしたい、て。」おばちゃんは、刺青の人に、目をつむらせた。そして自分は辞書のページをパラパラやりながら、ここと思うところで声を出してくれ、と言った。そこにあったのが、『すくいぬし』という言葉だった。『すくいぬし』その言葉は、おばちゃんにとって、どれほど大切なものになっただろう。家と家族を焼かれ、何もかもを矢ったおばちゃんが焦土で会ったその人が選んだ、「すくいぬし」という言葉は。おばちゃんはそのページを切り取り、大切にしまった。そして辞書を刺青の人に渡し、ふたりは別れた。おばちゃんは、18歳になっていた。……
(第五章 残酷な未来)

 

 

いつまで、そうやってるつもりなの? 澄江が言った言葉が、いつまでも消えなかった。そうって? そうだったって? 僕には分かっていた。僕だって、そう思っていた。自分はいつまでそうしているつもりなのだろうか。自ら為すことなく、人間関係を常に相手のせいにし、じっと何かを待つだけの、この生活を、いつまで続けるつもりなのだろうか。
(第五章 残酷な未来)
 
「私が、私を連れてきたのよ。今まで私が信じてきたものは、私がいたから信じたの。 分かる? 歩。 私の中に、それはあるの。『神様』という言葉は乱暴だし、言い当てていない。でも私の中に、それはいるのよ。私が、私である限り。」 僕はうつむいた。姉を直視することが出来なかった。そうしていても尚、姉の気配だけは感じられた。恐ろしく濃厚な気配だけは、感じることが出来た。「私が信じるものは、私が決めるわ。」 僕の足元を、蟻が追っていた。黒いその体は、踏むとすぐ潰れるだろうと思った。 「だからね、歩。」 僕は蟻を、じっと見ていた。 「あなたも、信じるものを見つけなさい。あなただけが信じられるものを。他の誰かと比べてはだめ。もちろん私とも、家族とも、友達ともよ。あなたはあなたなの。あなたは、あなたでしかないのよ。」 僕は、姉をそこに残し、歩き始めた。姉はひるまなかった。姉は、そこにいた。かつて自分が信じ、やがて鮮やかに捨て去ったものの前で、じっと立っていた。
「あなたが信じるものを、誰かに決めさせてはいけないわ。」
(第五章 残酷な未来)

 

 

母は「幸せになろう」と決意した。そしてそれは、おそらく「父と」だった。なのに父は、そんな母から逃げたのだ。毎日言い争い、ふたりは疲れていた。きっと父は、母のためを思い、僕達のためを思い、家を出たのだろう。金銭的援助を惜しまず、僕達の幸せを、特に母の幸せを望み、遠くへ離れる決意をしたのだろう。だがそれが母のためだったとしても、母は父といたかったのだ。母は、父と幸せになりたかったのだ。こんなに悲しいすれ違いはなかった。そして、こんなに悲しい皮肉はなかった。「絶対に幸せ
になる」と言った母は、ちっとも幸せじゃなかった。「幸せにならないでおこう」と思った父は、ずっと幸せだった。 姉が「すくいぬし」を母に渡しだのは正解だった。母の「すくいぬし」はひとりだ。父だ。母はそれを認めることが出来なかった。「幸せになる」と言った自分が、父が去っただけで不幸せになることを、認めることは出来なかった。母は父以外の人を探し続けた。自分は絶対に「幸せになる」のだと、全力を尽くした。でも無理だった。 姉はきっと、母に、それを認めさせたのだ。 母にとっての「すくいぬし」は父であること、父だけであること。そして母は、これからきっと、父のことだけを思って生きてゆくだろうことを。 それを認めた母は、どれほど楽になっただろう。「すくいぬし」と書かれた紙は、どれだけ母の糧になっただろう。 矢田のおばちゃんは、時を経ても尚、様々な女性を救い続けるのだ。
(第六章 「あなたが信じるものを、誰かに決めさせてはいけないわ。」)

 

 

僕は、生きている。 生きていることは、信じているということだ。 僕が生きていることを、生き続けてゆくことを、僕が信じているということだ。 「サラバ。」…… 扉が開いた。僕は今、タラップを下りようとしている。太陽の光が、僕の首筋を撫でている。「サラバ!」 生まれた場所に触れた途端、別れの気配がしている。でも僕は、決して絶望しない。僕は「それ」を、僕の「サラバ」を信じている。 僕は僕を、信じている。「サラバ!」 僕は、左足を踏み出す。
(第六章 「あなたが信じるものを、誰かに決めさせてはいけないわ。」)