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あらすじ
あの町と、この町、あの時と、いまは、つながっている。初めて人生の「なぜ?」と出会ったとき――きみなら、どうする? 一緒に立ち止まって考え、並んで歩いてゆく、8つの小さな物語。失ったもの、忘れないこと、生きること。この世界を、ずんずん歩いてゆくために。生きることをまっすぐに考える絵本「こども哲学」から生まれた物語と、3.11の震災を描いた「あの町で」を収録。

 

ひと言
今年もまた、人々の想いをのせて咲く花、桜の季節になった。
じっと眼を閉じれば 誰にも、かけがえのない大切な人と観た桜、花開いた桜を観てうれしそうに微笑むその人の笑顔が思い浮かぶ。
桜 咲け! すべての人の想いをのせて 美しく!

 

 

小さなつぼみが日増しにふくらみ、花がほころんで、というあたりまえの順序を踏まずに咲いた。まるで花咲かじいさんのおとぎ話のように、一夜にして満開になった。もちろん、そんなはずはない。みんなもわかっている。わかっていても、うつむきどおしだった顔をふと上げると、昨日までなかったはずの桜の花が咲き誇っていた、というのが実感だった。特別だったのは、ぼんとうは桜ではない。あの年の春が特別だったのだ。三月半ばの金曜日の午後、大地が激しく揺れて、水平線の彼方から襲ってきた巨大な波が、町を呑み込んだ。たくさんのひとが命を奪われ、もっとたくさんのひとが家や仕事をうしなった。桜を忘れていたひとは、三月から四月にかけては花を気に留めるどころではなかった、と首を横に振る。ようやくひと息ついたら夏だったんだ、と寂しそうに笑うひともいる。だが、そんな年でも、やはり桜は咲いた。厄災に襲われる以前となにも変わらず、四月半ばを過ぎた頃からほころびはじめ、四月の終わりに満開になって、こいのぼりの泳ぐ五月の空に散っていったのだ。
(あの町で 春)

 

 

秋も深まりつつあるいま、奇跡はあきらめている。願うのは、早く見つけてやりたい、わが家に帰らせてやりたい、ということだけだ。娘には「ママは遠くに行っちゃって、なかなか帰ってこられないんだ」と言ってあるが、いつまでもこのままではいられない。
……。……。
娘が「あそこ――」と川を指差した。体表が白くなった鮭が、水草の間に沈んでいた。まだ河口からほとんどさかのぼっていない場所だったが、ここで力尽きてしまったのだろう。その亡きがらを、別の鮭が追い越していく。体をくねらせ、しぶきを立てて、力強く川をのぼる。「あんなに元気がよくても、やっぱり死んじやうの?」悔しそうに、納得がいかない顔をして、娘は訊く。少しためらったが、父親は「ああ」とうなずいた。「もっと上流までさかのぼって、山のぼうまで行って、死んじゃうんだ」川に溶けた毒は無味無臭で、鮭にもわからないかもしれない。それでも、気づいてくれ、と思う。気づいたとしても、いまさら海に戻ることはできない。できなくても、怒ってほしい。怒りながら川をのぼって、命が尽きる、その瞬間まで、人間の愚かさを赦さずに――。父親は娘とつないだ手をあらためて握って、「でもな」とつづけた。「鮭は、川に帰ってきて、結婚するんだ」「へぇーっ」「結婚して、川の底に卵を産むんだ。だから、春には、たくさん子どもが生まれるんだよ」「そうなの?」娘の顔は、たちまち明るくなった。「ああ、そうだ」父親は娘から手を離し、肩を抱いた。やがて、この町にも冬が訪れる。雪景色のなか、川の上流では、命のバトンを渡し終えた鮭が安らかな眠りについているだろう。春になると、卵からかえった鮭の稚魚は、ほんの数センチの小さな体で川をくだり、海に向かって長い旅を始めるだろう。そしてまた、数年後に、毒に穢された川に帰ってくるのだ。また一尾、鮭が川をのぼってくる。
……。……。
父親の手をはずして川面を覗き込んだ娘は、のぼってきた鮭に向かってなのか、水底に沈む亡きがらに向かってなのか、「お帰リーっ」と声をかけた。父親は黙って小さくうなずき、膝を折った。娘と目の高さを合わせて、また肩に手を載せる。今度は娘も恥ずかしがらなかった。「あのな、よーく聞いてほしいんだ……」父親は、静かに語りかけた。
(あの町で 秋)

 

 

ぼくは、これだけをきみに伝えたいんだ。ゆっくり「不自由」と付き合っていきなよ。時にはいろんな「不自由」が窮屈だったり、うっとうしかったり、文句をつけたくなったりするかもしれないけれど……どうか、生きることを嫌いにならないで。哲学というのは、生きることを好きになるためのヒントなんだと、ぼくはいま思っているから。
(自由って なに?)