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あらすじ
桜田門外の変から13年。御駕籠回り近習として主君・井伊直弼を守ることができなかった志村金吾は、明治維新を経た後も、ひたすら仇を探し続けてきた。ついに見つけた刺客の生き残りは、直吉と名を変え、俥引きに身をやつしていた。明治6年2月7日、仇討禁止令が布告されたその日、雪の降り積もる高輪の柘榴坂で、二人の男の運命が交錯する――。
映画化原作「柘榴坂の仇討」をはじめ、幕末維新の激動を生き抜いた武士像を描く時代短篇集。

 

ひと言
レンタルDVDで「柘榴坂の仇討」を観ました。すごく心に残る映画で、志村金吾役の 中井貴一さん、佐橋十兵衛(直吉)役の 阿部寛さん、志村セツ役の 広末涼子さんたちの演技に泣かされぱなしでした。久石譲さんの音楽も心にしみる素晴らしいピアノだし、井伊直弼役が なんと中村吉右衛門さんです。
吉右衛門さん以外の配役は思いつかないし、金吾に慕われる掃部頭(かもんのかみ)を演じることのできる吉右衛門さんだから こんな感動的な作品になったんだと思います。1週間ほど前に借りて3回も観て泣いてしまいました。
その映画の原作が収められているのがこの本で、やっぱりどうしても原作を読みたくて借りました。40頁ちょっとの短篇で原作本もいいですが、映画を観ていないのなら是非おすすめしたいです。表題作の「五郎治殿御始末」もよかったです。

 

 

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この男は十三年の間、仇を探してきたのではないと直吉は思った。桜田御門の綿雪の中にずっと立ちつくしていたのだ。歩み出すことも、遁れることも、死ぬことすらもできずに、彦根橘の御駕龍のかたわらに、十三年の間ずっと立ちつくしていた。金吾の腕をすり技けて、雪の上に落ちた血の色の椿を握りつぶし、十兵衛は泣いた。自分もあの日からずっと、この椿の垣根のきわに座り続けていたのだと思った。
「佐橋殿――」まるで心のうちを読んだように、志村金吾は震えながら言った。「どうかそなたも、この垣根を越えてはくれまいか。わしも、そうするゆえ」柘榴坂の宵は、あの日と同じ綿雪にくるまれていた。
(柘榴坂の仇討)

 

 

「おのれ、折々の付け届けで、義理を売ったつもりでおりくさるのか」忠兵衛の顔色が変わった。腰を伸ばして祖父の胸倉を摑むや、忠兵衛は祖父の顔に火の出るような拳固をいくっも見舞った。「付け届けは賄などではねぁ。わしが食ってうまいものを、わしが敬っているお人に食っていただこうずと思ったんだわなも。礼儀でも義理かけでもねぁわえも。あなた様はそのような不浄なお気持ちで、わしの真心を食らいなさったのか。お侍とは、それほどに下衆であったのきやぁも」
たぶん祖父にはわかっていたのだろう。子供のわしですら、付け届けの何たるかはおぼろげにわかっておったのだからの。
桑名の参勤道中がのうなってからも、尾張屋は漬物や蟹や魚を持って、屋敷を訪ねてくれていた。それが商売ではないのは明らかではないか。……。
忠兵衛は言うだけのことを言ってしまうと、祖父の衿から手を離し、「どうぞご存分に」と首をさし向けた。……。
祖父は身を起こすと、うなだれる忠兵衛に向かって両手をついた。衿り高い桑名の上士であった祖父が、他人に平伏する姿をわしは初めて見た。「かたじけのうござる。この禿頭に免じて、ご無礼の数々、平にお許し下され。そこもとの真心、この岩井五郎治、よおくわかり申した。拙者がまちごうており申した」
(五郎治殿御始末)

 

 

「ご遺品を、預っております。お納め下さい」
 将校は軍服の懐深くに手を差し入れ、肌身はなさず持っていたにちがいない油紙の包みを、書状に重ね置いた。これで、将校が祖父とともに戦場を駆けたことは、明らかになったようなものだった。「お改め下さい、半之助君」わしを鼓舞するように、将校は少し笑った。「みなさまもご覧下さい。これが岩井五郎治殿の御始末です」おそるおそる、油紙を開いた。そこに見たものが何であるか、おまえにはわかるか。考えてみよ。五郎治は末期の力をふりしぼって、それをわしの元に届けてくれと、将校に頼んだにちがいなかった。本人の意思でなければ、そのようなものを遺品とするはずはないからの。そう。それは、祖父の禿頭にいつもちょこんと載っていた、あの笑いぐさの付け髷であった。わしは思わず噴き出し、そして、笑いながら泣いた。将校も忠兵衛も倅も、みな笑いながら泣いた。「なぜ、岩井様はこのようなものを」泣き笑いをくり返しなから、忠兵衛はようやく訊ねた。「わかりませぬ。是非にと頼まれれば、たとえ付げ髷でもいやとは言えますまい」わしにはわかったよ。あの爺様はの、みなに笑うてほしかったのだ。嘆きをことごとく、笑い声で被ってほしかったのだ。そしてもうひとつ――侍の理屈は、一筋の付け髷に如かぬと、わしに悟してくれたのであろうよ。侍の時代など忘れて、新しき世を生きよ、とな。
(五郎治殿御始末)

 

 

武家の道徳の第一は、おのれを語らざることであった。軍人であり、行政官でもあった彼らは、無私無欲であることを士道の第一と心得ていた。翻せば、それは自己の存在そのものに対する懐疑である。無私である私の存在に懐疑し続ける者、それが武士であった。武士道は死ぬことと見つけたりとする葉隠の精神は、実はこの自己不在の懐疑についての端的な解説なのだか、あまりに単純かつ象徴的すぎて、後世に多くの誤解をもたらした。社会を庇護する軍人も、社会を造り斉える施政者も、無私無欲でなければならぬのは当然の理である。神になりかわってそれらの尊い務めをなす者は、おのれの身命を借しんではならぬということこそ、すなわち武士道であった。
人類が共存する社会の構成において、この思想はけっして欧米の理念と対立するものではない。もし私が敬愛する明治という時代に、歴史上の大きな謬りを見出すとするなら、それは和洋の精神、新旧の理念を、ことごとく対立するものとして捉えた点であろう。社会科学の進歩とともに、人類もまたたゆみない進化を遂げると考えるのは、大いなる誤解である。たとえば時代とともに衰弱する芸術のありようは、明快にその事実を証明する。近代日本の悲劇は、近代日本人の奢りそのものであった。誰しも父祖の記憶をたぐれば、明治維新という時代がさほど遥かなものではないことに気付き、愕然とする。実はその愕きの分だけ、われわれはその時代を遠い歴史上の出来事として葬っているのである。

 

 

さほど遠くはない昔、突如として立ちはだかった近代の垣根の前に、とまどいうろたえながらとにもかくにも乗り越えた人々の労苦を、私はいくつかの物語に書いた。
(五郎治殿御始末)