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あらすじ
何でもします。あの絵を、《画家の夫人》を守るためなら。ゴッホにセザンヌ、ルノワール。綺羅星のようなコレクションを誇った美術館は、二〇一三年、市の財政難から存続の危機にさらされる。市民の暮らしと前時代の遺物、どちらを選ぶべきなのか? 全米を巻き込んだ論争は、ある老人の切なる思いによって変わっていく――。実話をもとに描かれる、ささやかで偉大な奇跡の物語。

 

ひと言
12月上旬に予約を入れたので、結構早くに読むことができました♪100頁ほどの本で少し物足りないかなとも思いましたが、ちょうど4月下旬に豊田市美術館(なぜ豊田からなのかと思いましたが、自動車つながりの姉妹都市で、トヨタも『守る』ために寄付をしたということです)から始まった「デトロイト美術館展」。

 

 

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その東京展(10月7日~1月21日)に本を間に合わせて、美術展に行った人、これから行こうという人に読んでもらい、デトロイト美術館のことをもっと多くの人に知ってもらいたい、という原田さんの強い想いがあったんだと思います。
もう少し早く、この本のことやデトロイト美術館のことを知って豊田か大阪に観に行けたらよかったなぁ

 

 

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マダム・セザンヌ、オルタンス。すみれ色の模様があるベージュのカーテンを背景にして座る彼女。どっしりとした構図なのに、どこかしら軽やかさを感じるのは、かすかに体を傾けて、いましも立ち上がりそうに見えるから。そして塗り残しのように画面の上下の色がかすんでいることによって、彼女の体が浮かび上がって見えるから。彼女が身につけている青いワンピース、決して華美ではなく地味な服装は、絹のドレスと宝石で着飾った貴婦人の肖像画よりも、はるかに親しみを覚える。それに、服の青は単純な青ではない。ほんのりとバラ色が混じって、まるで朝焼けの空をまとったようなやわらかさとすがすがしさがある。彼女の顔。いったいどうしてそんなに不機嫌なんだい?と思わず問いただしてみたくなるほど、むすっとして、つまらなそうな表情。けれど頬とくちびるに点ったバラ色は、青い服に溶け込んだバラ色と呼応して、やわらかでやさしげな雰囲気をもたらしている。鳶色の眼は、じっとこちらをみつめて動かない。小さな、ごく小さな光の粒が瞳の奥に宿ってふるえている。
DIAが所蔵するコレクションの中で、フレッドはこの作品がいっとう好きだった。
(第一章 フレッド・ウィル《妻の思い出》)

 

 

――あたしのお願い、ひとつだけ聞いてくれる? 最後にもう一度だけ、一緒に行きたいの。――デトロイト美術館へ。
……。……。
その日、ジェシカは、初めてDIAを訪問したときに着ていったダンガリーシャツとスラックスを着込んで、口紅をつけ、ほお紅をさして、目一杯おしゃれをした。ジェシカの身支度は、かつての職場の同僚、エミリーが整えてくれた。とってもきれいよ! とエミリーは、ジェシカとともに鏡を覗き込んでそう言った。きっとあなたのだんなも惚れ直しちゃうわよ。ねえフレッド?
車椅子を押して正面のエントランスヘ行くと、階段の下で美術館の男性職員が四人、待機していた。ようこそDIAへ、と彼らは、笑顔でふたりを迎えてくれた。そして車椅子を持ち上げて、入り口まで運んでくれたのだ。フレッドは胸がいっぱいになった。ありがとう、とひと言だけ告げて、あとは言葉にならなかった。《マダム・セザンヌ》の前に、車椅子のジェシカとともに佇んで、フレッドは、ほんとうに思わず、彼女、お前に似ているね、とつぶやいた。ジェシカは、《マダム・セザンヌ》をじっとみつめたまま、なんとも応えなかった。黙ったままで、いつまでも、いつまでも、絵をみつめていた。
――ねえ、フレッド、お願いがあるの。どのくらい経っただろうか、ジェシカがふいにかすれた声でつぶやいた。はっとして、フレッドは、なんだい? と前かがみになって妻のロもとに耳を寄せた。すると、ジェシカはこう言った。
――あたしがいなくなっても……彼女に会いに来てくれる?
彼女、あなたがまた来てくれるのを、きっと待っていてくれるはずだから。あたしも、待ってるわ。あなたのこと、見守っているわ。……彼女と一緒に、ここで。
フレッドは、体を起こすと、もう一度《マダム・セザンヌ》に向き合った。目の前がじわりとかすんでいく。マダム・セザンヌの不機嫌な顔がにじんで見えた。堪えきれずに流れる涙を、妻に気づかれたくなかった。フレッドは、声を殺して静かに泣いた。
その二週間後、眠るように、おだやかに、ジェシカは旅立っていった。
 ジェシカのなきがらに、フレッドは、彼女の人生の中で最初と最後にDIAを訪れたときに着ていた、あの青いダンガリーシャツを着せてやった。最愛の妻は、まるで朝焼けの空をまとっているようだった。
(第一章 フレッド・ウィル《妻の思い出》)

 

 

フレッド、僕は、まずあなたに感謝の言葉を告げたくて、誰よりも先にこのメールを打っている。一年半まえの夏、あの雨の日。「ロバート・タナヒル・コレクション」のカタログの著者に面会したいと言って、あなたが僕を訪ねてくれなかったら、僕はとっくにくじけてしまっていただろう。あの日、あなたが僕に教えてくれた話、聞かせてくれた言葉の数々は、追い詰められて苦しんでいた僕を解き放ってくれた。いまは天国に暮らす奥さんと、生前、一緒にDIAを訪ねてくれたこと。アートは友だち、美術館は友だちの家なんだと教えてくれたこと。いちばん気の合う友だちが、セザンヌの描いた《マダム・セザンヌ》であること。コレクションの売却は、ふるさとの家から友を追い出すことに等しい。だから、絶対にあってはならない。助けたいのです。――友を。
あのときの、あなたの真剣なまなざし。そして、ジーンズのポケットから取り出した一枚の小切手。僕は、あのときのあなたの寄付が、「グランド・バーゲン」の原点になったのだと信じている。あなたの寄付は、ささやかなものだったかもしれない。けれど、あなたの気持ちが、大河の最初の一滴となったことを、僕は決して忘れない。
フレッド。僕は、あなたのような市民がいるこの街、デトロイトを誇りに思う。
あなたがこの街にいてくれたことこそが、デトロイト美術館の奇跡なんだ。
ありがとう。
(第四章 デトロイト美術館《奇跡》)