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あらすじ
「この世界はさ、本当は幸せだらけなんだよ」
声の小さな皆川七海は、派遣教員の仕事を早々にクビになり、SNSで手に入れた結婚も、浮気の濡れ衣を着せられた。行き場をなくした七海は、月に100万円稼げるというメイドのバイトを引き受ける。あるじのいない大きな屋敷で待っていたのは、破天荒で自由なもうひとりのメイド、里中真白。ある日、真白はウェディングドレスを買いたいと言い出すが……。岩井俊二が描く現代の噓(ゆめ)と希望と愛の物語。

 

ひと言
先日読んだ「きみはいい子」のDVDを借りに行ったとき、同じおすすめのDVDとして横に並んでいた「リップヴァンウィンクルの花嫁」。黒木華、綾野剛、Cocco さん主演の3時間の映画でしたが、すごく心に残り 原作本を読みたくなって すぐに図書館に予約を入れた本です。
読み終えてYouTube で『何もなかったように』という曲を聞きました。当時ユーミンが飼っていた愛犬(シェパード)が死んで、その供養のために作った曲とのことです。

 

 

雰囲気を壊さないように真白は『何もなかったように』という曲を選んだ。

 

 

……。……。

 

 

人は失くしたものを
胸に美しく刻めるから
いつも いつも
何もなかったように 明日をむかえる

 

 

真白の歌唱力は人並みではあったが、人を惹き付ける魅力があった。歌い終えた真白に七海は拍手を贈った。「素敵な曲ですね」「前に誰かがリンクを送ってくれて。何回も聴いてたら覚えちゃった」「これは松任谷由実の荒井由実時代の曲で、四枚目のアルバム『14番目の月』の中の一曲ですよ」ピアニストが教えてくれた。「『14番目の月』……」と七海。「十二月の次の次ってことですかね。二月?」「いや、満月から十四番目月って意味なんですよ。新月って意味です」「シンゲツ!……シンゲツってなに?」と真白。「三日月でもない真っ暗な月のことですよね」と七海。ピアニストは頷いて、「つぎの夜から欠けてゆく、つまり消えて行く満月より、これからだんだん大きくなる新月の方がいいって歌なんですよ」
(第十四章 リップ・ヴァン・ウインクル)

 

 

『リップ・ヴァン・ウィンクル』はアメリカの小説家、ワシントン・アーヴィングの短編小説だった。リップ・ヴァン・ウィンクルという男がある日森の中に迷い込み、見知らぬ人だちと酒を酌み交わしているうちに眠ってしまい、目を醒ますとあたりには誰もいない。家に帰ると、アメリカはイギリスから独立し、妻は既に亡くなっていて、子供たちは大きくなっていた。寝ている間に二十年の歳月が過ぎていたという、浦島太郎のような物語だ。
(第十四章 リップ・ヴァン・ウインクル)

 

 

「あたしね、コンビニとかスーパーで買い物してる時にね……」真白の声は少しかすれていた。「……お店の人があたしの買ったものを、袋に入れてくれてる時にね、その手をじっと見つめてると、その手は、あたしのためにさ、せっせとお菓子やお総菜をさ、袋につめてるんだよ」「ははは、真白さんなんの話ですか?」見ると真白は眼に大粒の涙を浮かべていた。「あたしなんかのために。せっせと袋につめてるんだよ。そのお店の人がさ。こんなゴミみたいなあたしのためにさ。それ見てると胸がぎゅっとして来てね、苦しくなって、泣きたくなる。あたしにはね、幸せの限界があるの。これ以上無理って限界。たぶんね、そこらの誰よりもすぐに限界が来るの。ありんこよりちっちゃいの。その限界が。この世界はさ、ほんとは幸せだらけなんだよ。みんながよくしてくれるんだよ。宅配便のオヤジは重たい荷物をさ、あたしのここって言うところまで運んでくれるよ。雨の日に、知らない人がカサをくれたこともあったよ。でもあんまり簡単に幸せが手に入ったら、あたし壊れるから。だからせめて、お金払って買うのが楽。お金ってさ、そのためにあるんだよきっと。人のさ、マゴコロとかやさしさとかがさ、あまりにもくっきり見えたらさ、それはもうありがたくてありがたくて、人間は壊れちゃうよ。だからさ、それをみんなお金に置き換えてさ、そんなものは見なかったことにするんだよ。七海、そんな目で見つめないで。壊れそうになるよ」
真白の涙は止めどなく流れ、髪の毛を、枕を濡らした。七海はその涙を食い入るように見つめた。真白の言葉が全身に染み渡るようだった。不意に真白の表情が変わった。思い詰めたような抜き差しならない視線が、七海を貫いた。この人は、何か大きな闇を心に抱えている。七海は直観した。その闇を私は受け止められるのだろうか。いや、受け止められなくても。受け止めなければ。七海は素直にそう思えた。真白が言った。「あたしと一緒に死んでって言ったら?」……。
(第十九章 落日)