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あらすじ
老いの兆しは、悲しいはずなのに、嬉々として話してしまうのはなぜだろう?減らない体重も、ひどくなる二日酔いも、乾燥する肌も…それは、劣った自分ではなく、新しい自分。変わる、というのは、実際はちょっとおもしろいことなのだ。「変わりゆくカラダ」を好奇心たっぷりに綴る。

 

ひと言
しばらく振りの読書ブログ。まったく読んでいなかったのでなくて、2冊ほど途中で読むのをやめてしまって書けませんでした。久しぶりに大好きな角田 光代さん。もうすぐ50歳になる角田さん(年齢をばらしてすみません)だが、腰の痛みの単位を作ったり、エクオールの話などすごくお茶目♪。楽しく読ませてもらいました。これからもお体を労わって、素敵な作品をよろしくお願いします。

 

 

傘を杖がわりに、なんとか立ち上がることができた。けれど、尋常でないほど痛い。腰の痛みをあらわす単位をズンとするとして、ぎっくり腰が50ズンだったら、この痛みは200ズン。一瞬、骨を折ったか、と思うが、傘を杖にして歩いてみれば、歩けないこともない。
(災難も突然やってくる)

 

 

もし一本前の電車に間に合っていれば遅刻しなかったな、という軽い「もし」もあるし、もしあのときこの仕事をしていなかったら人生そのものが違ったな、という重い「もし」もある。でもその選択をしたときは、選択肢などほかになかったように思っている。実際に、「もし」の発生地点に立ち戻ってみても、「もし」ではないほうを何度だって選んでしまうのだろう。そして、私たちは永遠に、「もし」の先を知ることがない。今よりももっと生きやすいのか? 生きづらいのか?今より若いころのほうが、その仮定は大きなことだった。それこそ、「こうしていなければ人生は違ったはず」という、人生系仮定ばかりしていた。生きている時間が増えていくにつれて、「もし」などないと実感するようになり、あんまり考えなくなった。今、考えるのは、それこそジム通いをしていなかった自分、ランニングをしていなかった自分、程度のことである。そうしてそれは、どちらかというと、今の自分を積極的に肯定したいがための仮定なのである。年齢を重ねるって、楽になることなんだなあと、こういうときに気づく。
(「もし」の先)

 

 

もしかして、体力というのはお金のようなものなのではないか。……。
でも、お金とは違って、使っていないのに、気がつけば減っている。どんどん減っていく。そして、気づく。ああ、使わないと減るんだなあ。それであわてて、使いはじめる。残り少ない財産を湯水のように使いはじめる。
(使わなくても減っていく)

 

 

大豆食品を日常的に食べる日本人は、ほかの国の女性に比べて、更年期障害の症状が軽いと言われているらしい。その大豆を摂取したとき、体質により「エクオール」というものを体内で作れる人と作れない人とがいるのだという。エクオールが作れると、食品として食べた大豆のイソフラボンが有効に摂取される。つまりエクオールを作れる人は、更年期障害の症状が軽度だということになる。……。その彼女曰く、日本では、体内でエクオールを作れる女性は五十パーセントくらいだという。半分か……。さらに「私は作れるんです!」と、胸を張って言うではないか。えーっ、作れるの、いいなあ、いいなあといっせいに声があがる。もちろん私も小学生のように連呼した、いいなあ、いいなあ、いいなあと。作れる体質か否かを調べるキットがあって、インターネットで申しこみ、郵送のやりとりで検査できるという。これを聞いたらもう、調べないわけにはいかない。ここでもう、私のなかではエクオール検査イコール占いのようなことになっている。……。
ようやく送られてきた封筒をベリベリと破き、中身を取り出した。あらわれた用紙には、「あなたはエクオールを作れません」と書かれていた。
(八卦ではないのだが)