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あらすじ
一枚の絵が、戦争を止める。私は信じる、絵画の力を。手に汗握るアートサスペンス! 反戦のシンボルにして20世紀を代表する絵画、ピカソの〈ゲルニカ〉。国連本部のロビーに飾られていたこの名画のタペストリーが、2003年のある日、突然姿を消した―― 誰が〈ゲルニカ〉を隠したのか? ベストセラー『楽園のカンヴァス』から4年。現代のニューヨーク、スペインと大戦前のパリが交錯する、知的スリルにあふれた長編小説。

 

ひと言
私にアート小説というものの面白さを教えてくれた原田 マハさん。図書館に予約してやっと読むことができました♪。読み終えてすぐ、どこまでが史実なのか。MoMAが本当に〈ゲルニカ〉の貸与を働きかけた事実があるのか。国連本部の〈ゲルニカ〉についてネットで調べました。

 

 

 

 

『暗幕のゲルニカ』を書く直接のきっかけも、やはり実際に起こった出来事でした。〈ゲルニカ〉には、油彩と同じモチーフ、同じ大きさのタペストリーが世界に3点だけ存在します。ピカソ本人が指示して作らせたもので、このうち1点はもともとニューヨークの国連本部の会見場に飾られていました(ちなみに1点はフランスの美術館に、もう1点は高崎の群馬県立近代美術館に入っています)。しかし事件は2003年2月に起こります。イラク空爆前夜、当時のアメリカ国務長官コリン・パウエルが記者会見を行った際、そこにあるはずのタペストリーが暗幕で隠されていたのです。私はそれを、テレビのニュースで知りました。
同じ年の六月、スイスのバーゼルで行われた印象派の展覧会を訪れたところ、会場のロビーにそのタペストリーが飾られていたのです! 横には、暗幕の前でパウエル国務長官が演説をしている写真と、展覧会の主催者にして大コレクター、エルンスト・バイエラー氏のメッセージがありました。「誰が〈ゲルニカ〉に暗幕をかけたかはわからない。しかし彼らはピカソのメッセージそのものを覆い隠そうとした。私たちはこの事件を忘れない」と。そしてタペストリーは所有者の意向により、国連本部から他の美術館に移されました。
結局、誰が暗幕をかけたのかは未だにわかりません。アメリカがイラクに軍を向ける、その演説にそぐわないと考えた何者かでしょう。けれど、その何者かは〈ゲルニカ〉に暗幕をかけることで、作品の持つ強いメッセージを図らずも世界中に伝えることになったのです。

 

 

 

 

 

 

1992年にはバルセロナオリンピックに合わせた文化行事のためにバルセロナが、1995年には第二次世界大戦終戦50周年にちなんで日本政府が、1996年にはピカソの大回顧展を開催するフランス政府が、1997年にはゲルニカに近いビルバオに開館したビルバオ・グッゲンハイム美術館が、2000年には数十年に渡って絵画を管理していたニューヨーク近代美術館が絵画の貸与を希望したが、ソフィア王妃芸術センターはすべての打診を拒否した。

 

 

カスタマーレビューで「雑誌連載のためか繰り返しの記述が多く、くどさを感じる」と書かれた方がありました。私もその点は同感ですが、とても楽しく読ませてもらいました。群馬県立近代美術館はなかなか行く機会がないので、徳島県鳴門市にある大塚国際美術館の実物大の〈ゲルニカ〉のレプリカをぜひ観に行きたいなぁと思いました。

 

 

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四日まえ、ランチタイムにカイルが言い出した「国連のゲルニカ」とは、〈ゲルニカ〉のタペストリーのことだった。 オリジナルの〈ゲルニカ〉と寸分たがわぬ構図とサイズで、一九五五年に制作されたものである。ルース・ロックフェラーの父であり、当時の大統領の側近として活躍していたネルソン・ロックフェーラーが、「〈ゲルニカ〉の精巧な複製画が欲しい」とピカソに依頼、タペストリー職人のデュルバックが、ピカソの監修のもとに完成させた。ネルソンの死後、未亡人、つまりルースの母が一九八五年に国連に寄託し、安全保障理事会議場のロビーに展示されて現在に至る。
(2003年2月1日 ニューヨーク)

 

 

スペイン館で〈ゲルニカ〉が公開された、その日。その全貌を初めて大衆の前に現した〈ゲルニカ〉の前で、敵陣視察とばかりにやってきたナチスの将校たちと、ピカソは向かい合っていた。将校のひとりが、ピカソに尋ねた。―― この絵を描いたのは、貴様か? ピカソはたじろぎもせずに答えた。―― いいや。この絵の作者は、あんたたちだ。このやりとりに会場は騒然となった。ピカソの勇気あるひと言に拍手喝采を送りたい人々が少なからずいたはずだ。けれど、彼らはぐっとこらえた。〈ゲルニカ〉の前でナチスと闘うことができるのは、この世界中でたったひとり、パブロ・ピカソだけだったからだ。あの胸がすく瞬間。ドラは、はっきりと意識した。
(1937年9月10日 パリ)

 

 

瑤子は、MoMAの初代館長、アルフレッド・バーJrが企画して実施した伝説の展覧会「ピカソ:芸術の四十年」展に想いを馳せた。第二次世界大戦が勃発する直前、危険を覚悟で渡仏したアルフレッドはピカソに直談判をした。〈ゲルニカ〉を含むあなたの主要作品のすべてをMoMAで展示したい、そうすることでスペイン内乱の実情にアメリカの目を向け、支援を促したいのだ、と。そして、展覧会を承諾する代わりにと、ピカソがアルフレッドに提示したたったひとつの条件。――〈ゲルニカ〉をMoMAにとどめてほしい。スペインに真の民主主義が戻る日まで。そうして、〈ゲルニカ〉はニューヨークヘやってきた。それに付き添ってやってきたのは、若き日のパルド・イグナシオ。青春のすべてを懸けて戦時下のピカソと作品を守ったのだと、瑤子はルースから聞かされた。海を渡ってやってきた〈ゲルニカ〉とパルドを埠頭で出迎えたのは、アルフレッドと、十一歳のルース・ロックフェラーだった。 その日からずっと、ルースはアートを支援し、守り、後世に伝えるために私財を投げ打って美術館を助け、キュレーターーやアーティストを助成し、励まし続けている。彼女こそが真の芸術の女神なのだ。MoMAのためにも、ルースのためにも、そして9・11で傷ついたニューヨーク市民のためにも……戦争やテロの犠牲になった人々のためにも。そしてイーサンのためにも。泣き言を口にすまい。決して恐れまい。この展覧会を実現するまでは――
(2003年6月5日 ニューヨーク)

 

 

ヨーコは、一年九ケ月まえの九月十一日にニューヨークを襲ったあの凄惨な事件をきっかけに、この企画を立ち上げました。『ピカソの戦争』と銘打った展覧会を開催したいと、彼女が理事会で最初に訴えた日のことをよく覚えています。テロで傷ついたニューヨーク市民のために、また、戦争に巻き込まれてしまった罪なき人々のために、いったいアートは何ができるのか――その思いは、ピカソが生涯を通じて抱き続けた気持ちと同じではないか。自分もまた、ニューヨークに生を享けた美術館のキュレーターーとして、展覧会を通して問いかけ、そして答えたい。――ピカソいわく、芸術は、決して飾りではない。それは、戦争やテロリズムや暴力と闘う武器なのだ、と。その言葉を発展的にとらえれば、アートとは、人間が自らの愚かな過ちを自省し、平和への願いを記憶する装置であると言えるのではないか。そして、そのアートを守り、後世の人々に伝えることは、私たちMoMAの使命なのだ。……ヨーコは、そう語ったのです」
(2003年6月5日 ニューヨーク)
 
「去る二月五日、国連安保理議場のロビーでパワー長官が演説をしました。その背景に何があったか――あるいはなかったか。覚えていらっしゃいますか?」会場を埋め尽くした聴衆は、互いに顔を見合わせ、ざわめいた。「背景にあったのは、暗幕だ」カイルが声を上げた。「そしてあるはずなのになかったのは――〈ゲルニカ〉だ」瑤子はうなずいた。そして、はっきりと、力のこもった声で言った。「あの日、あのとき。誰かにとってそこにあってはならなかったあの作品を、私たちは取り戻しました。――そこになくてはならないから」それから、ポディウムの横に下がっているスクリーンを指し示した。その瞬間、真っ白なスクリーンが、ぱっと切り替わり、真っ黒な画面になった。会場内のざわめきがいっそう大きくなり、すべての視線がスクリーンに釘付けになった。……。
食い入るようにスクリーンをみつめていたカイルが、「ここは……」と小さくつぶやいた。「……国連安保理議場のロビー……?」ルースが悠然と微笑んだ。その傍らで、パルドが、満足そうにゆっくりとうなずいた。瑤子はまっすぐに前を向いた。遠くの星をみつめるようなまなざしで、彼女は言った。「剥がしてください……暗幕を」会場の誰もが息をのんだ。バサリ、と音を立てて、スクリーンの中で、黒い長方形が床の上に落とされた。暗幕の下から現れたのは、タペストリーではなく、壮大な一枚の絵。〈ゲルニカ〉だった。
(2003年6月5日 ニューヨーク)

 

 

本作は史実に基づいたフィクションです。二十世紀パートの登場人物は、架空の人物であるパルド・イグナシオとルース・ロックフエーフーを除き、実在の人物です。
二十一世紀パートの登場人物は、全員が架空の人物です。架空の人物には特定のモデルは存在しません。