イメージ 1 
 
あらすじ
「軍部が悪い」だけでは済まされない。七十年前のリーダーたちは、なにをどう判断し、どこで間違ったのか。松岡洋右、広田弘毅、近衛文麿、木戸幸一、昭和天皇を俎上に。半藤は検察官として罪状に迫り、弁護士加藤は情状酌量の根拠を開陳。いま「失敗の本質」を白日のもとに晒すべく徹底的に検証する。

 

ひと言
以前に読んだ『それでも、日本人は「戦争」を選んだ』の加藤 陽子さんと私の大好きな歴史探偵の半藤一利さんという、昭和史研究のツートップの二人の対談集。
さすがにこの二人の対談は専門的すぎて、私にはなんのことかわからない部分もありましたが、それでも楽しく読ませてもらいました♪

 

 

 

【加藤】そしてその日、広田弘毅はウエッブ裁判長の判決を聞き、通訳による翻訳読み上げを待たずにヘッドホンを外した。判事たちに深々と頭を下げると、二階の傍聴席にいるお嬢さんの ほうを見上げて、目を細めて会釈し退廷するのですよね。
【半藤】あの場面がいいばっかりに、のちにずいぷんと株を上げました。広田は絞首刑を宣告されたただひとりの文官で、その死刑は十一人の裁判官のうち六対五という際どさで決まったこともあって、当時から同情を寄せるひとも少なくなかったわけですが。
【加藤】では一般的にどういう形で広田の人間像が伝わったかというと、もちろん城山三郎さんの小説『落日燃ゆ』によってです。この本は昭和四十九年(一丸七四)の刊行でした。
【半藤】これが売れたんです。タイトルもよかった。
(第一章 広田弘毅)

 

 

 

 

【半藤】それにしても、天皇はなぜあれほど松岡を嫌ったのか。昭和天皇という人は不思議なくらい個人の悪□は言わない人なのですが。
【加藤】明治天皇を知っている世代の人たちには、「(昭和天皇は)やっぱりまだまだお若い」、といった感じだったのでしょうか(笑)。松岡だって日露戦争のときに上海で外交官人生をスタートさせた、だいぶ上の世代ですからね。半藤さんは富田メモ(※)をぜんぶお読みになっておられますが、はっきりとそこには白鳥と松岡がいるから靖国にはいかないと?

 

 

 

※富田メモ 昭和四十九年年(一九七四)から昭和六十三年(一九八八)にかけて宮内庁次長および宮内庁長官をつとめた富田朝彦は、昭和天皇の側近にあってその発言を記していた。富田の死後、遺族が日本経済新聞社に提供し、同社は半藤一利と秦部彦に検証を依頼した。メモすべての公開はされていない。

 

 

【半藤】ええ、はっきり書いてありました。A級戦犯のなかに、靖国神社に祀られる資格のないものがいるということなのでしょう。それが白鳥と松岡。
【加藤】しかし白鳥にしても、それほど破滅的な外交をやったかというと……。どうなのでしょう。三国同盟についての白鳥の起案レペルの文書では、どうイギリスを抑えるかという点に力点が置かれています。もちろん白鳥が心酔していたドイツ・イタリアとの同盟関係というのは、天皇にしてみれば、とんでもないということになるのでしょうけれど。
【半藤】旧制浦和高校で私と同級生だった白鳥さんの息子、洋三くんは、「親父はひとがいうような分裂症じゃないんだ」と言っていました。
【加藤】松岡洋右とは違うと。
(第三章 松岡洋右)

 

 

 

【編集部】けれど連合艦隊司令長官山本五十六は、「目下ワシントンで行われている日米交渉が成立した場合は、Xデーの前日午前一時までに、出勤部隊に引揚げを命ずるから、その命令を受けた時は、直ちに反転、帰航してもらいたい」と言うわけですよね(※)。全艦隊の首脳陣を集めてXデー、戦争を開始する日が十二月八日であることを告げたあとに。

 

 

 

※昭和十六年(一九四一)十一月十三日、各艦隊の司令長官、司令官、参謀長、首席参謀が岩国航空隊の会議室に集合した。山本五十六は、集まった者たちに戦争を開始する日が十二月八日であることを告げて作戦の最終的な打ち合わせをおこなった。そのとき、たとえ攻撃隊発進のあとでも、命令を受けとったら引き返させるようにせよとつけ加えている。機動部隊の司令長官、南雲忠一中将が無理な注文だと反対すると山本は、「百年兵を養うは、何のためだと思っているか。もしこの命令を受けて、帰って来られないと思う指揮官があるなら、只今から出動を禁止する。即刻辞表を出せ」と声を荒げたという。阿川弘之はその著書『山本五十六』のなかで「言葉を返す者は、一人もいなかったということである」と記した。

 

 

【半藤】海軍の場合は所帯も小さいし、連合艦隊司令長官が命令を発すれば攻撃隊の反転帰航もできたかもしれません。山本長官の権威は絶大でしたから。ただ、陸軍は大部隊がほうぼうに展関していますから、「はい、わかりました」とは言いませんよ(※)。大本営が寺内寿一総司令官の南方軍の戦闘序列を発表したのが十一月六日。その発表後、陸軍は、作戦開始に先立ってプノンペンやサイゴンなどに十個師団をおいていましたし、中国から南下させた第三飛行集団もすでに進駐していたのです。東条が陸軍を掌握していたといっても、ことここに至ればもう東条ひとりでは抑えきれません。

 

 

※児島襄は『戦史ノート』、「指揮官と参謀」の項に、連合艦隊司令長官という職務の特殊性についてこう記した。「連合艦隊司令長官というのは、非常に特異な存在である。海軍の全戦闘部隊を統轄する最高指揮官で、これに当たる職責は陸軍にはない。陸軍は師団長→軍司令官→方面軍司令官→総軍司令官という順序で大兵力の指揮官はいたが、海軍のように全戦闘部隊を一人で統轄する指揮官は存在しなかった」

 

 

【編集部】聖断がくだっても、陸軍は言うことを聞きませんか。
【半藤】あそこの時点ではもう無理です。と私は考えます。ハル・ノートをみんなアメリカの宣戦布告として受けとっているんですからね。十一月の三日だったなら、とは思いますが。
(第五章 昭和天皇)