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あらすじ
話すのが苦手で幼稚園では内向的と見られていていた少女は、文字に触れるや文章を書くという行為に魅せられ、7歳のときに志したとおり、23歳で作家になる。とにかく書いた、読んだ、旅した。芥川賞、三島賞の候補には何度も上った。そして37歳、直木賞受賞。家族をめぐり、自著をめぐり、旅をめぐって各紙誌に寄せた文章を精選。作家として大成するまでの軌跡であるとともに、作家の等身大の思いの数々。

 

ひと言
2008年の本なのに、いつも利用している図書館では見かけたことがなく、新しく利用した図書館で見かけた本。角田さんの本を読むときは、いつもハッとする言葉に付箋だらけになってしまって、このブログに残す言葉を選ぶのにどれにしようかといつも悩むのですが、多くの心に残る言葉の中からこの2つにしました。

 

 

以前、新刊のインタビューにきた人が、結婚はしているんですか、といきなり訊いてきた。していません、と答えると、結婚に至れない理由はご自分でなんだと分析されますか、と重ねて訊くのである。その質問よりも、そのインタビュアーが女性であったこと、同世代であったことに、私は少なからずショックを覚えた。同世代の女性であるならば、仕事をしていて、結婚していないと朗らかに答える女は、したいのにできないのではなく、結婚のほかに興味があるのだと、即座に理解するはずだと私はどこかで思っていたのである。しかし彼女は、「したくないからしていないのです」という私の答えもさらに理解できなかったようで、「何か問題のある家庭に育ったのですか、結婚したくなくなるような」と、重ねて訊いた。なんでこんなおかしな人と話をしなくちゃならないんだろう、と泣きたくなったが、よくよく考えてみれば、このインタビュアーはどこかおかしいのではなく、ただ、「区分け」をしたかったんだろうと思い至った。女性を、どこか必死になって区分けするのは女性だと、三十代も後半を過ぎてから、思うようになった。……。
「区分け」のための質問というのがあって、これは女性同士しかしない。結婚していて子どもがいない。子どもがいて仕事もしている。子どももいないのに専業主婦である。結婚もしておらずする予定もない。そういう情報は、あるタイプの女性にとっては区分けラベルなのである。そうしてラベルをつけて区分けし、自分の立ち位置というものを理解する。自分の立ち位置が理解できると、その立ち位置の正当性のために、優劣をつける。……。件のインタビュアーの理解不能な質問も、区分けと考えれば至極納得がいく。既婚の彼女にとって、同世代の未婚女性は劣った位置にあるのだろう。そう理解してはじめて、相手と向き合うことができるのだろう。……。
ひょっとしたら区分け好きの女性がしたいのは、優劣をつけることではなくて自分を肯定することなのではないか。一昔前に比べたら、女性の立ち位置は本当に千差万別である。結婚という形態をとらないまま子を産む人もいるし、三十代で三度の離婚経験を持つ人だっている。それほど多様化した女性の生きかたを見ていると、自分のやっていることは本当に正しいのか、つまらない間違いを犯していないかと、どんどん不安になる。不安から逃れるために区分けをし、自分をランクで理解しようとする。女が女を区分けするのはそういうわけではないのか。
(なぜ女は女を区分けしたがるのか)

 

 

格差社会と言われているが、私はその言葉を聞くたび、この国では均一であることが前提なのだなと思ってしまう。みな同じこと。それが幸福であり、ゆたかなことなのだと、宣言されている気がしてしまうのだ。しかし本当にそうなのだろうか。だれもが金銭的な裕福を望んでいる。だれもが子どもを産むことができ、だれもが二人以上の子を持つことを望んでいる。それが健全で、ゆたかなことなのだろうか。
母性、にしてもそうだ。女は女と生まれただけで母性を持っていると、無意識にだれもが思ってるが、本当にそうなのか。ならばなぜ、虐待や子殺しがあとを絶たないのか。この小説『八日目の蟬』を書きながら考えたことのひとつに、母性というのは才能なのではないか、ということがある。サッカーやピアノに必要とされるものと同じ力のことである。その才能にしたって、環境や資質がそろわなくては、発揮されることはないのである。人はみんな違う。持っている才能も、与えられた環境も違う。金銭的裕福が必要な人も、そんなものがなくとも幸福を感じる人もいる。その違いを認めなければ、ゆたかさというものはほど遠いように、私には思えてしまう。母になったとしてもならなかったとしても、何かを持っていたとしても持っていなかったとしても、そんなことに左右されない強靭さを、人は、私たちは、持っているはずである。
(違いに揺るがぬ強靭さ)