イメージ 1 
 
あらすじ
2014年1月3日、ひとりの歌手が食道がんで亡くなった。「関西の視聴率王」やしきたかじん。ベールに包まれた2年間の闘病生活には、その看病に人生のすべてを捧げた、かけがえのない女性がいた。夜ごとに訪れる幻覚と、死の淵を彷徨った合併症の苦しみ。奇跡の番組復帰の喜びと、直後に知らされた再発の絶望。そして、今わの際で振り絞るように発した、最後の言葉とは――。この物語は、愛を知らなかった男が、本当の愛を知る物語である。『永遠の0』『海賊とよばれた男』の百田尚樹が、故人の遺志を継いで記す、かつてない純愛ノンフィクション。

 

ひと言
いろいろ世間で騒動を起こしている本で、これは純愛ノンフィクションではなく純愛フィクションなのかもしれません。でもたかじんが亡くなったというのはまぎれもない事実で、この本の中に自分の親父のことを重ねながら読みました。
たかじんが亡くなって11日後の 2014年 1月14日 午後 9時12分 私の親父も81歳で亡くなりました。肺気腫でずーっと何年も入退院を繰り返していた親父でしたが、肺がんが見つかって…、体力的にもう手術は無理で…、年末には最後の正月を家族で過ごそうと自宅に戻っていました。私も最後の正月を親父と過ごそうと、少し早めに年末の休暇を取って大阪に帰りました。その親父が年末の28日、病院に戻りたいと言い出したので、「最後の正月を家族と過ごさずに、病院で過ごしたいのか!。勝手にしろ!」と きつい言葉を親父に投げつけてしまいました。今から思えば痛くてたまらなかったんだろうと思います。年末年始で病院が休みになると不安だったんだろうと思います。1月7日 前から申し込んであった緩和ケアの病院に空きができたのでそちらに転院することができました。点滴等の延命治療をすることもないので 見る見るうちに衰弱して、意識も混濁し、痛みも感じることなく眠るように旅立ったと思います。大阪と名古屋でしょっちゅう顔を見せに帰ってあげることもできず、親父の看病はお袋や弟夫婦に頼って世話になりっぱなしの親不孝な息子でした。ただ、亡くなる14日は名古屋から2人の娘たちも駆けつけて最後のお別れができたのが何よりうれしかったです。親父も孫娘に「頑張れよ」と声にはならないけれども自分で励ましてやるまではと精一杯頑張ってくれたんだと思います。その日、家族4人で車で名古屋の自宅に帰ってすぐ、お袋から親父が亡くなったという電話が入りました。

 

 

たかじんさんも うちの親父ももうすぐ3回忌。2人の冥福を心から祈ります。

 

 

イメージ 2

親父、言葉にできないくらい ありがとうの気持ちでいっぱいです。ずっとずっと親父のこと忘れないよ。親父はいつも俺の心のなかで今も生きているからね。ほんとうにありがとう。おつかれさま。安らかに眠ってください。

 

 

彼の食道ガンはステージⅢだ。手術が成功しても、五年後の生存率は三〇パーセントもない。再発したときは最後だ。そんな日が永久にやってこないことを願うが、もしその日が来たとしても、決してうろたえないでいよう。彼には最後まで希望を持たせる。病気のことで、彼の前では絶対に泣かない。いつかお別れするときが来たとしても、最後まで諦めない。笑顔でいよう。
(第一部 第七章 奇跡)

 

 

十月三日、たかじんとさくらは入籍に必要な戸籍謄本を取るために、いったん大阪に戻った。その日の夕方、たかじんは「ボーイズ」の相原康司に「大事な話があるから実印を持ってこい」と電話した。夜、相原が大阪のマンションにやってきた。「師匠、何ですのん? 大事な話って」たかじんはわざと深刻そうな表情をしてみせた。「実はな、言いにくいことやけど――、病気の治療で金がなくなってん」相原は黙ってうなずいた。キッチンからそれを見ていたさくらは、噴き出しそうになるのを懸命にこらえた。たかじんが言っていることは全部嘘だった。最初から相原をからかうつもりで呼び出ししたのだ。たかじんは重苦しい声で言った。「これからもどれだけ金がいるかわからへん。ほんで大金を借りることになったんやけど、お前、借金の連帯保証人になってくれ」「はい」と相原は即座に答えた。「いいですよ」「ほんまか。復帰でけへんかったら、返すあてはないんやで」「師匠のためなら、何でもやりますよ」さくらはその言葉を聞いて泣きそうになった。たかじんも一瞬言葉を詰まらせた。「ほんなら、これにサインして印鑑押してくれ」たかじんは一枚の書類を相原の目の前に差し出した。相原は署名捺印しようとして書類に目を通したが、その顔がみるみる崩れた。書類は「婚姻届」だった。「師匠、とうとう――」あとは涙で言葉にならなかった。
(第三部 第三章 希望)

 

 

久保田はレントゲン写真を見せながら、落ち着いた口調で言った。「林さんは腹膜播種です」初めて聞く病名だった。「それって――ガンですか」「腹膜内にお米の粒くらいの小さなガンが無数にできるものです」「治療方法はありますか」久保田は少し間を置いて、「ありません」と答えた。さくらは衝撃のあまり気を失いかけた。「どうすれば、いいんですか」「聖跡加病院では、ここまでくると緩和ケアをお勤めしています」緩和ケア(緩和医療)とは、患者が死を迎えるまで苦痛から解放することを主眼に置いた治療で、もはや命を永らえさせるものではない。「ハニーの時間は、あとどれくらいですか」「一、ニカ月でしょう」さくらは号泣した。これまで耐えに耐えてきた悲しみが一気に噴き出した。涙も声も抑えることができなかった。診察室で泣きじゃくるさくらを見つめる久保田の目も真っ赤だった。ひとしきり泣いたあと、さくらは訊いた。「運がよければ、春まで生きられる可能性はありますか?」「厳しいと思います」その瞬間、初めて「もう無理なのか!」と思った。この二年間どんな状況に陥っても一度も諦めなかったさくらの心が折れた。もうハニーにしてあげられることは何もないのか。本当にもうおしまいなのか――。そのとき、処置室で点滴を受けているハニーのことを思い出した。すぐにハニーのところに戻らなければ――私がいないと、彼は不安になるはず。さくらは涙を拭くと、久保田に一礼して、診察室を出た。廊下を歩く足が自分の足ではないような感じがした。処置室に入ると、ベッドに寝ていたたかじんがさくらを見た。その瞬間、彼は大きく目を見開いた。そして、言った。「――わかった」さくらは何も言えなかった。たかじんは悲しそうな顔をして静かに続けた。「さくらの顔見た瞬間にわかったわ」さくらがたかじんをベッドから車椅子に移し替える間、彼は黙ってさくらの顔を見つめていた。車椅子を押している間も、彼は後ろを向いてさくらから視線をはずさなかった。さくらの目から涙がぽたぽたとこぼれた。たかじんは車椅子を押すさくらの手にそっと手を添えた。「わかるよ。さくらはぼくにウソをつかれへんねんから――」さくらは小さな声で「ごめん」と言った。
(第三部 第五章 余命)

 

 

取材中、彼女が泣きだして、それ以上続けられないことが何度かあった。彼女が最も泣いたのは、腹膜播種の宣言を受けた話をしたときだった。このとき、彼女は「腹膜播種」という言葉を発することさえできず、スマホでその文字を打ち出して、私に見せたほどだ。辛い記憶を呼び起こさせる取材は、彼女にとっては残酷なことだったが、それを聞くほうもまた精神の疲労を強いられた。そして執筆しながら、何度も「愛」とは何だろうと自問した。私はこの物語は、愛を知らなかったやしきたかじんという男が、本当の愛を知る物語だと思う。そして、さくらはそれを伝えに来た女性だった。他人の人生をそんなふうに都合よく運命づけて見るのは、小説家の傲慢な見方ということは自覚している。だが、そうとしか思えないのだ。 しかし、愛を知ったたかじんには、もう時間はわずかしか残されていなかった。だが、彼は幸福に包まれて亡くなったと思う。以下の文章は、たかじんが最後に残したメモの中にあったものだ。

 

 

ここにきて命も寿命も受け入れられんのは、本間に会うべき人間と会ってしもたから 受けるべき愛情を知ってしまったから人生に金以上、仕事以上、遊び以上の価値を見つけたから 与えることもできんかった愛情をさくらに全部あげたい (原文ママ)
(エピローグ)