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あらすじ
昨年亡くなった高倉健のエッセイ集。健さんが忘れられない時間と場所、忘れ得ぬ人びとに対する男の想いを語った23編を収録。映画の中の朴訥(ぼくとつ)で寡黙な「高倉健」としてではなく、ひとりの人間としての素のままの気持ちが綴られています。 飾らない内容、語りかけるような文章、そして最終章で明かされる、タイトルに込められた思い…… 。

 

ひと言
今日は早いもので大好きな健さんの一周忌。
この本はもう何回も読んだ本だけど、数日前から読み返しました。
今朝は、とびっきりの豆を挽いておいしいコーヒーを淹れて、鉄道員(ぽっぽや)の撮影中、健さんが毎日食べていた大好物の芋だんご(芋もち)を手作りし、バターとオリーブオイルで焼いてお供えしました。
おいしいコーヒーと芋だんごだったよ♪ってあなたに褒められたくて…
健さんが大切にしてきた「人を想う心」。それを忘れないように気をつけるね、見守っていてね。健さん……。

 

 

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三十回目のお詣りをして、心の区切りがついた。一九九〇年からは、もうこれからは行けるときに行こう、心の流れにまかせて自然体であろうと自分に納得させた。三十年間のお詣りで仏様にいうことはいつも同じだったような気がする。「昨年中は有難うございました。こんなに気ままに生きて、昨年はまたしかじかの人の心を傷つけてしまいました。反省します」と手を合わせる。何か頼んだ覚えは一度もない。これからも同じことを祈り続けると思っている。しかし、よく考えてみれば、その時々、一番気になっている人の名を挙げ、その人になんとかご加護を与えてください、と祈っている。頼みごとはしない、などと言いながら、やはりお願いをしてるじゃないか。気になっている人はもう年中変わっているから、気が多いんですよね。
(善光寺詣り)

 

 

『駅』『居酒屋兆治』『夜叉』『あ・うん』ですね。降旗監督が走った姿や、威圧感を感じさせたり、怒鳴ったりする姿を見たことないですよね。大声出したことも人から聞いたこともないんですよね。だからといって、人を突き放しているのではなくて、俳優のことも、小道具のことも、大道具や照明のことも、衣装のことも、きちっと見てくれているんです。認めてくれるから、それぞれの人が、それぞれの場で、よりよいものを求めて、必死で駆け回る。『史記』でしたか、「士は己を知るもののために死す」という言葉、スタッフはみんな降旗さんの前に出ると、死なないまでも、必死で走り回るんじゃないでしょうか。といって、「うーん、よくやった」とか、「おまえは偉いぞ」と褒めることもしないんですよね。だけど、映画ができあがると、一人一人の努力が、きちんと画面の中に込められているんです。あの人の映画に参加できた人は、どのパートの人間でも、自分の今後の行く先に灯りをともしてもらったような気持ちになるんじゃないでしょうか。
(殿様の血)

 

 

ウサギの御守り
人が人を傷つけるとき、自分が一番大事に想う人を、いや、むしろとっても大切な人をこそ、深く傷つけてきたような気がする。この人はかけがえのない人なんだ、もうこんな人には二度とは会えないぞと思うような人に限って、深く傷つけるんですねえ。傷つけたことで自分も傷ついてしまう。そしていつのころからか、本当にいい人、のめり込んでいきそうな人、本当に大事だと思う人からは、できるだけ遠ざかって、キラキラしている思いだけをずっと持っていたいと考えるようになってますね。卑怯なんですかねえ。くっつかなければ、別れることはない。全然その人に会うこともできない、電話すらできなくても、自分の胸の想いというのは、全くなにかタイムカプセルにでも入ったように変わらないんですよね。人にはそれぞれ、いろいろな、しがらみとか事情とかあって。そのときには自分はこうですと言えないというのありますよね。何年かたったとき、今なら言えるんだけどと思うこともあるんですが、時の流れが早すぎて、向こうはもう切り替えて違うパートナーを探してるとかですね……難しいですね、世の中。男と女の話を語る資格は、僕にはありませんが、でも女性を想わない訳ではないんです。うまくいかなかったことが、みんないやな思い出かというとそうでもなくて、うまくいってない、いや、いかなかったんだけどちょっとした瞬間、昔よく聴いた曲とか、立ち止まった景色とか、目をつぶって思い出すとジンとしてくることがあるんです。……。……。
「愛するということは、その人と自分の人生をいとおしく想い、大切にしていくことだと思います」
『幸福の黄色いハンカチ』の北海道ロケ中に、ぼくが、山田洋次監督に、愛するということはどういうことでしょうかと、その質問に対する答でした。
(ウサギの御守り)

 

 

車から降りてしばらく探しましたが、やはりわからない。すると、一緒にいた仲間の一人、小林稔侍君が、近くのおばさんをつかまえて聞いてくれたんです。「おばちゃん、このへんに、都荘ってアパートがあったんだけど、知らない?」そのおばさんは、数人の男がうろうろしているので、先ほどから気になっていたらしい。「そこ、そこの空地にあったのよ。でも、もう取り壊しちゃったわよ」安心したような声で言った。よく見ると、門柱はそのまま残っていて、しかもその門柱には、「文京区大塚6-27-2 都荘」と横書きされた表札が、はめ込まれたまま残っていたんです。大泉の東映の撮影所に通い始めたころのことがよみがえってきて、とってもなつかしく思ったんです。ここから歩いて池袋に出て、そこから西武線に乗って、撮影所へ通ってました。金もなかったなあ……。門柱にさわってみたけど、ビクともしなかった。「柱ごと持って帰りたいけど、無理だよな。今度はカメラ持ってきて写真に撮ろう」そんなことを、独り言みたいに言ってると、おばさんが話しかけてきた。「あんたたちはなに?」「いや、都荘っていうアパートがあったって聞いたからね」「ああ、都荘って有名だったからね。昔、高倉健が住んでたのよ」おばさんは、昔からのことを知ってるらしかった。「嘘だろ」と、稔侍がまぜ返すと、すかさずおばちゃんが答える。「本当だよ。ここらへんでは有名な話なのよ。…」……。おばさんのお喋りを聞いたあと、ぼくはもう一度、門柱と表札にさわってみて、言ったんです。周りが気安い仲間たちだったからでしょうね、また、チョロっとね、「チキショウ、これ柱ごと記念に取っておきてえなあ……」二ヵ月くらいたったときだと思います。稔侍と一緒にメシを食っていると、「アノー、持ってきたんすよ、あれを」と、突然ぼそっと言うと、ガサガサと新聞紙の包みを取り出した。手にずしりと重いそれは、開いてみるとあの都荘の表札なんです。ぼくはびっくりして、口の中のメシを噛まずに飲み込みそうになった。「こんなもの、どうやって外したんだよ」コンクリートの門柱に、ピタッとはめ込まれたタイルの表札である。素人の手には負えないはずだ。「いや、あの『あにき』のときの鉄カブト、じゃなくてヘルメットかぶって、その下にちゃんとほっかぶりもして、金づちとこれで」と、ノミと金づちを持つしぐさをした。……。「で、コンコンやってたんですよ。そしたらまた、あのババア、いや、おばさんが出てきて、「何してるの?」「うーん、ここ、もう立ち退きだからあ」とかごまかしてですね。横っちょがちょっと欠けてしまいましたけど……」
とても嬉しかった。稔侍の思いが。そのときから、左のカタが欠けている横長でちょっと黄ばんだ表札は、ぼくの宝物になったんです。そのとき一緒だった仲間の中で、これは自分がやるべきことなんだという稔侍の思いと一緒に……今度は僕の心に嵌め込まれて、ガッチリ留まっているんです。受け切れないほどの、奴の思いをどうやったら返せるでしょうか。
稔侍とのことはきっともっとお話ししたくなると思います。たくさんの方に聞いていただくしか返せるすべがないのかもしれません。ありがとう、稔侍。
(都荘の表札)
 
「お母さん。あなたが思っているより、僕ずーっともててるんだよ。教えてやりたいよ本当に」「バカ」って言ってました。頑固で、優しくて、そして有難い母だったんです。自分が頑張って駆け続けてこれたのは、あの母に褒められたい一心だったと思います。……。
あなたに代わって、褒めてくれる人を誰か見つけなきゃね。
(あなたに褒められたくて)