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あらすじ
数百キロ離れて暮らすカップル。久しぶりに再会したふたりは、お互いの存在を確かめ合うように幸せな時間を過ごす。しかしその後には、胸の奥をえぐり取られるような悲しみが待っていた―(表題作)。16歳の年の差に悩む夫婦、禁断の恋に揺れる女性、自分が幸せになれないウエディングプランナー。迷い、傷つきながらも恋をする女性たちを描いた、10のショートストーリー。

 

ひと言
1ポンドが「ヴェニスの商人」の肉1ポンドだったとは…。この前に読んだ村上春樹の「女のいない男たち」にもあった『逢ひ見ての…』に通じる表現。
『1ポンドの悲しみ』 だなんて、知的さを含んだ 衣良さんらしいおしゃれな言葉だなぁ。覚えとこ♪

 

 

「なにしてるんだ」朝世は泣きそうな声でいった。「あの子の名前を考えてる。あの子は今苦しくてたまらなくて、それでも必死に闘っていると思う。がんばれって応援してあげたいけど、わたしはどんなふうに呼んだらいいのかもわからない。わたしたちのまわりにあるものは、どんなにくだらないものでも、ちゃんと決まった名前をもってるのに、あの子には名前もないの。生まれてひと月で、もっているのは穴のあいた心臓だけなんだ。そう考えたら、たまらなくなって」朝世はボールペンの先を手帳に突き刺した。声を漏らさないように肩を震わせている。俊樹がペンチのとなりにやってきて、しっかりとその肩を抱いた。……。
「今回のことで、ぼくにはよくわかったことがある。名前ってぼくたちがやってるみたいに誰のものかあらわすだけじゃないんだ。何度も心のなかで呼んでみたり、歌うように繰り返したり、誰にも見られないように書いたりする。好きな人の名前って、それだけでしあわせの呪文なんだね。……。
朝世は右手の人さし指で俊樹の頬にAと書くと、あたりに看護婦の姿がないのを確認してから、そのイニシャルがいつまでも消えないように、そっと唇を寄せた。
(ふたりの名前)

 

 

「きてくれるとは思わなかった。急でしたから」英恵はうなずいていった。「芹沢さんを三十分も持たせてしまうのは気の毒だから」ふたりは池をめぐる遊歩道を肩を並べ歩きだした。……。英恵は縁の水面をゆっくりと揺れながらすすむボートを眺めていた。始まったものにはいつか終わりがくる。だが、別なことを始めるためには、先に終わらせておかなければならないものがある。それはまだ英恵には終わらせることができないものだった。英恵はまっすぐにまえを見ていった。「毎週のように花を買いにきてくれるのはとてもうれしかったです。いつも短い時間だったけれど、芹沢さんとお話しできて楽しかった」芹沢は英恵の声の調子になにかを感じたようだった。黙ってとなりを歩いている。足元で枯葉を踏む乾いた音がした。英恵は一歩先にでて背中ごしにいった。「でも、こうしてお店の外でお会いするのは今日だけにします。芹沢さん、ごめんなさい。この池を一周したら、わたしは家にかえります」芹沢はうなずいたようだった。「そうですね。それが一番いいのかもしれない。英恵さんにはかえる家があるんですよね。ご迷惑をおかけしました」迷惑なんかじゃない。英恵はいいたかった。あなたはわたしの心がからからに乾いてひび割れそうなときに、たっぷりと水分を贈ってくれた。感謝しているのはこちらのほうだ。芹沢はふっ切れたようにさばさばという。「急な転勤の辞令がでて、来月から秋田市にいくことになりました。生保業界は転勤が多いんです。だから最後にきちんとお会いして気もちだけでも伝えておこうと思って。でも、ぼくのわがままでした。英恵さんがつくってくれた花束を部屋に飾れなくなるのが、これからはちょっと淋しいです」ふたりはそれから三十分ほどかけて、ゆっくりと池をめぐった。家族のこと、友人のこと、学生時代の思い出。もう何度も誰かに話したことを、初めて話すときの新鮮さで伝えあった。自分の話をこんなふうに集中してきいてくれる誰かがいるのが、英恵はただうれしかった。だが、楽しい時間は駆け足ですぎてしまう。どれほどゆっくり歩いても、先ほどの出人口はやってきてしまう。最後の数十メートルをふたりは無言のまま歩いた。自分の名残おしい気もちは、芹沢にもきちんと伝わっていると英恵は思った。ふたりは枯葉の散らばる階段を見あげた。芹沢は緊張した顔でいった。「ぼくはここに残って、もうすこし頭を冷やしていきます。今日はどうもありがとう」そういって手をさしだした。英恵は階段を見あげてから、芹沢を見た。冷たい手を取って、指先だけそっとにぎる。「わたしのほうこそありがとう。いつかまた花束をつくらせてくださいね」英恵は芹沢の目を見た。秋の盛りの公園がすべて目のなかに吸いこまれていくようだった。男の人の目を見て、これほど切ない気もちになることは、もう一生ないかもしれない。でも、きっとこれでいいのだ。糸を引くように指を離す。英恵は咲かせることのできなかった白いつぼみを一輪胸の奥に抱えて、階段をゆっくりとのぼった。だが、毎日のように花を扱う英恵は知っている。花は決して咲いているときだけが美しいのではない。花には花の、つぼみにはつぼみの美しさがある。いつかこのつぼみを咲かせるときがくるまで、大切に残しておこうと思った。その日はきっとやってくる。
(十一月のつぼみ)

 

 

「ふたりでよく本の感想を話していたでしょう。ぼくは機械のメンテナンスをしながら、きいていたんだ。とても他人のような雰囲気じゃなかった。本の話をしているときの千晶さんは、なんていうか……けっこう、いけてたよ」目のまえの新宿の街に新しい日がさしたようだった。視界全体が汚れをぬぐわれて、さっと明るくなった。ほんの五文字の言葉が生む力に、千晶は心を動かされていた。高生は表情を硬くしている。一世一代の殺し文句をはいたあとには見えなかった。「それで、今日はこのあとだけど……」……。「今日は予定がないから、ちょっと早いけど明るいうちに、冷たいビールでものまない? わたし、高生さんと話したいことがいっぱいあるみたいな気がする」高生はほとんど目を閉じそうに細めて笑った。「どうせ、これまで読んだ本の話なんでしょ」千晶は少女のように舌の先をのぞかせた。「うん、そうだけど、それが一番わかるんだよ。あなたがどういう人で、なにが好きか。心の底でどんなふうに生きたいと思っているか」千晶は窓のむこうを見ている高生にいいたかった。これほどたくさんの本が書かれているのは、そのせいなのだ。本はひとつひとつがちいさな鏡で、読む人間の心の底を映しだす力がある。……。高生と千晶の物語にいつか最高の山場がやってくるとしても、そこまでのページにも、きっと素敵なサイドストーリーが待っているに違いない。千晶はカウンターのうえでサイン本を開いた。輝やく銀の大文字が躍っている。わたしたちの本は、今日この瞬間にこの言葉から始まるのだ。それがどんな結末をむかえるにせよ、千晶は途中で読むのをやめるつもりなどなかった。
(デートは本屋で)