イメージ 1 
 
あらすじ
小学3年生、母を亡くした夜に父がつくってくれた"わが家" のトン汁を、避難所の炊き出しでつくった僕。東京でもどかしい思いを抱え、2 カ月後に縁のあった被災地を訪れた主婦マチ子さん。あの日に同級生を喪った高校1年生の早苗さん…。厄災で断ち切られたもの。それでもまた巡り来るもの。家族の喪失の悲しみと再生への祈りを描く、7つの小さな物語。

 

ひと言
読み終えて 警察庁のHPで行方不明の方の人数 2567名(10月9日発表)を確認し、法務省のHPで死亡届を見た。後5ヶ月でもう5年になる。
いつも泣くことのほか 何もしてあげられないけど、この震災のことを、亡くなった人たちのことを ずっと忘れなければ 私たちの心の中にずっとその人たちは生き続けることができる。
これからだんだん寒くなっていくけど 次の春を その次の春を、おだやかな暖かい日がつづく春を想って…… 

 

 

「いまのおまじないって……」マチコさんが訊くと、転校してしまう子が「六年生のひとが教えてくれたの」と答え、見送るほうの子が「ずーっと、二小の伝統になってるの!」と自慢するようにつづけた。「そうそう、伝統だよねー。だって、ウチのお父さんも二小なんだけど、お父さんの頃からあったんだって。ほかの学校にはないから、二小だけの伝統なんだよね」「すごく効き目あるって六年生のひとが言ってたよ」「奇跡を呼ぶんだよね」「だからまたエリちゃんと会えるよね」「会える会える」ケイコちゃんが友だちの誰かに伝えてくれた。その友だちが別の誰かに伝え、年下の子にも広がって、やがて代々語り継がれる伝統になった。「あれ? おばちゃん、泣いてるの?」「なんで? えーっ、わたし、なにもヘンなこと言ってないよね?」「でも泣いてるよ」「やだ、なんでぇ?」わかった。わたしがこの町でいちばん会いたかったのは、昔のわたしだったんだ、と思った。だいじょうぶ。ちゃんといた。マチコさんがこの町で暮らしたことの証は、ここに残っていた。胸のつかえが、すうっと消えていく。やっと、誰かのためにきちんと涙を流せる気がした。「誰か」の顔は浮かばないままでも、もう落ち込まなくていいんだ、と顔の見えない誰かが、そっと背中をさすってくれた。
(おまじない)

 

 

奇跡を信じるには月日がたちすぎている。もう二度と会えないんだ、と思わせてほしい。あきらめさせてほしい。そうすれば、思いっきり泣いてあげられるのに。慎也に対して幼なじみ以上の感情を抱くことはなかったものの、だからこそ、男子や女子の区別がほとんどない幼い頃に戻って、わんわん泣くことができるだろう。現実にはありえないようなか細い希望を大切に守りすぎて、きちんと悲しむことができないというのは、やっぱりおかしいと思う。心の底から悲しませてほしい。無念と悔しさいっぱいのお別れをさせてほしい。お墓参りもしたい。仏壇にお線香だってあげたい。なにより、おっちょこちょいで元気だった慎也の思い出を、みんなで話したい。なつかしい話は尽きないはずだし、きっと最後にはみんな泣いてしまうはずだ。そのほうが慎也も喜んでくれるだろうし、ありったけの涙を振り絞って流したあとは、こっちの気持ちもすっきりするだろう。理津子さんにその思いをぶつけてみた。なるほどね、と理津子さんは小さくうなずいてから、まっすぐに早苗を見据えた。「慎也くんでも誰でもいいんだけど、津波で亡くなったひとは、あんたをすっきりさせるために亡くなったわけじやないからね」ぴしゃりと言われた。
(しおり)
    
イメージ 2
 
イメージ 3

四日前の六月七日に、法務省は死亡届の提出手続きを簡略化することを決定した。たとえ遺体が発見されていなくても、家族の申述書などがあれば市町村役場に提出できることになったのだ。法務省のホームぺージからは、申述書の様式がダウンロードできる。由美さんが帰ったあと、理津子さんはさっそくその内容を確かめて、「ひどいなあ……」とうめき声でつぶやいた。早苗も見せてもらった。ざっと目を通しただけでも、胸が締めつけられた。アンケートか問診票のような様式だった。たとえばー。〈本人の生存を、いつ、どのような方法で、最後に確認しましたか〉〈現在に至るまで、本人から連絡がありましたか〉〈本人からの連絡がない理由について、どのように考えますか〉――回答の選択肢は二つ。〈本人の死亡以外の理由は考えられない〉か、記述式のくその他の理由〉。〈親族のうち、本人が死亡したものと納得していない人がいますか〉――今度も選択肢は二つ。〈いない〉ならそれでいいが、〈いる〉場合には、本人との間柄や納得していない理由を記入することになっていた。「こんなの家族が書かなきやいけないの?」思わず訊くと、理津子さんは「お役所の書類だからしかたないわよ」とため息をついた。「慎也くんのお父さんとお母さん、これを書いたの?」「うん、ゆうべね」「……つらかっただろうね」よけいなこと言わないの、とたしなめられるだろうかと思っていたが、理津子さんは黙ってうなずいた。申述書はどこまでも事務的につくられている。必要最小限のもの以外はすべて削ぎ落とされ、理由を答える箇所はあっても、感情を伝える項目はどこにもない。理屈では割り切れない思いや、すっきりしない思いを捨て去らなければ、家族の死を届け出ることはできないのだ。「でも、これくらい冷たくてそっけないほうが、かえっていいのかもね。踏ん切りがつくもんね」理津子さんはそう言って、「もう三ヵ月なんだから……」と自分に言い聞かせるようにつづけた。
(しおり)

 

 

包みの中には、ホタテの貝殻でつくったネックレスが入っていた。貝殻をきれいに磨いて色をつけ、穴を開けて紐を通しただけの、ほんとうに素朴な、アクセサリーとも呼べないようなものだった。貝殻の内側には〈まいちやん おめでとう〉の手書きのメッセージと、今日の日付が記してある。「これ……わたしのお誕生日のプレゼントってこと?」黙ってうなずくお母さんに代わって、お父さんが「そうだよ」と答えてくれた。「佐藤さんって誰?」「麻衣がカレンダーを送ってあげたひとだ」「マジ?なんでウチの住所知ってるわけ?」説明はお父さんに任せた。お母さんはまたキッチンに引っ込んで、ネックレスに同封してあった手紙を読んだ。いかにもお年寄りらしい、細くて頼りなげに震えたボールベンの字だった。〈先日はお手紙ありがとうございました。娘さんのお誕生日、せっかくのご縁ですので、私にもお祝いの真似事をさせてください。仮設住宅のみんなと一緒につくっている飾り物です。まだまだ下手ですが、やることがなにかあるだけでも、心に張り合いが出ます〉カレンダーには、週に三日、ネックレス作りのために仮設住宅の集会室に出かける予定が書いてあるらしい。〈カレンダーに書いた予定を見るたびに、ニコニコしています〉文字が震える。震えつづける。おばあさんの書いた文字だから、ではなく。〈私の孫は中学二年生でしたが、可哀相なことになってしまいました。麻衣ちゃんはどうか元気で大きくなってください。お祈りしています〉
(記念日)

 

 

「写真というのはたいしたものですね。泣けるんですよ、写真があると」――「女房も、嫁も、孫も」とつづけたあと、少し間をおいて「私も」と付け加える。山本くんの写真が家になかった頃は、仏壇の前で悄然とするしかなかった。悲しみは胸に降り積もる一方で、流れ出て行く先がない。写真が届いて、やっとそれが見つかった。家族がみんな泣くようになった。仏壇に向かわなくても写真をちらりと見るだけで、いや、写真がそこにあるということ、ただそれだけで、目に涙がにじんでしまう。「おかげで、みんなすっかり泣き虫になって、家の中が湿っぽくなっちゃってね」言葉ではぼやいていても、表情のほうは、ほっとしている。
(五百羅漢)
 
運命について思う。悲しみはある。ないと言えば嘘になる。けれど、悔しさや無念や恨みだけは抱くまい、と自分に言い聞かせる。ひとはそのために、運命のせいにするという知恵を授かったのかもしれない。冬が来て、また春がめぐって、桜が咲き、鮭の稚魚は海を目指して泳ぎだす。……。……。
まっすぐ座り直して、冬を越えたあとに待つ春を、また思う。次の春も、また次の春も、おだやかな暖かい日がつづくといい。
(また次の春へ)