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あらすじ
アメリカの国民的画家〈アンドリュー・ワイエス〉と〈フクシマ〉の原発事故について描く「中断された展覧会の記憶」、MoMAに現れる一風変わった訪問者にまつわる監視員の話「ロックフェラーギャラリーの幽霊」、初代館長アルフレッド・バーと、美しきMoMAの記憶を、インダストリアルデサイナーの視点から描いた「私の好きなマシン」、マティスとピカソ、そしてある学芸員の友情と別れを描いた「新しい出口」、そして「あえてよかった」。著者ならではの専門的かつ、わかりやすい視点で、芸術の面白さ、そして「MoMA」の背景と、その歴史、そして所蔵される作品群の魅力を、十二分に読者へと伝える待望の「美術館」小説集。

 

ひと言
近代美術館 Museum of Modern Art の頭文字を取ったMoMAというのは、ほぼ確実にニューヨーク近代美術館のことを指すらしい。そこで実際に働いていた原田 マハさんが書いたこの作品。絵画のことなんかほとんどわからない私でも、ものすごく引き込まれて、付箋だらけのとても素敵な作品でした♪。3時間もあれば読めてしまうおすすめの本です。今まで図書館でなかなか借りられなかったというのもありますが、美術のことはわからないからと敬遠していた本屋大賞3位の『楽園のカンヴァス』も是非読みたいです。

 

 

たった一行の「追伸」が、あまたある依頼メールとは異なっていた。その一文こそが、杏子の気持ちを強くたぐり寄せたのだ。  追伸 
画中の『クリスティーナ』が、草原の中、不自由な体をどうにかひきずって向かう先に、私は、私のふるさと、福島があるのだと勝手に信じています。
(中断された展覧会の記憶)

 

 

クリスティーナは小児麻痺に罹り、足が不自由だった。にもかかわらず、自分のことはすべて自分でやり抜いた。常に前向きな彼女の生き方に、ワイエスは深い感銘を覚えた。その結果、世間からは「不憫な女性」と見なされていたクリスティーナは、画家によって永遠の命を与えられることになる。横長の画面を枯れた草原がいちめんに覆っている。画面上部を横切っている空に陽光はなく、どんよりとした曇り空だ。その空の下にぽつんと建つ二軒の家。画面で見る者の目を奪うのは、やや左下寄りの中央に描かれた女性の後ろ姿だ。薄いピンク色のワンピースに包まれた細い体。両手は枯れ草の大地にしっかりと食いこみ、いましも前進しようと力をこめている。か細い髪を揺らして乾いた風が通り過ぎる。過酷な重力に逆らい、懸命に進もうとするその後ろ姿。決して振り向かないその背中。彼女こそが、クリスティーナだ。「多くの人が不幸の恪印を押すであろう彼女の人生を、彼女は自ら克服した。その力をこそ、私は描きたかった」。生前、ワイエスはそう語った。「彼女は確かに身体的には不自由だっただろう。けれど、心は自由だったのだ」。誰の助けも借りず、自らの意志で、自らが行きたいと願う場所へ行こうとするクリスティーナ。ワイエスがその姿に見たのは、絶望ではない。光だった。
(中断された展覧会の記憶)

 

 

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杏子は傍らのトートバッグの中を手探りした。思いがけず、苦しいほど胸の鼓動が高まった。が、やらざるを得ない。業務なのだから、と自分に言い聞かせる。杏子がバッグの中から取り出しだのは、放射線量測定器だった。伸子の視線が背中に突き刺さる。息を詰めてスイッチを入れた。出発まえにルイーズからこれを手渡されたとき、杏子は青ざめた。そして、いったいなんのために? と語気を強めて抗議した。放射線の線量を測ったところでどうすることもできないでしょう? もし作品が放射能に汚染されてたら洗浄するっていうの? だいいち、あっちの学芸員の目の前でこれにスイッチを入れるなんて……。
(中断された展覧会の記憶)

 

 

――ねえ、お母さん。クリスティーナにね、いっぱいいっぱい、話したよ。がんばってね。がんばってね。負けないでね。真由もがんばるからね、って。真由はワイエスの画集を見ながら、母に『クリスティーナの世界』について話を聞かせてもらっていた。病気で足が不自由なのに、なんでも自分でできたクリスティーナ。この絵は後ろ向いてるでしょ? なんでかっていうとね。クリスティーナがいっつも前を向いて生きてるってことを、画家がみんなに見せたかったからなんだよ――「そうだったんですか」杏子は、胸の中が熱いもので満たされるのを感じた。「じゃあ、展覧会が中断されたことは、まだ真由ちゃんには……」「もちろん、伝えました」きっぱりと伸子が言った。「事実は事実ですから。地震があって危ないから、クリスティーナはおうちへ帰る、って。そうしたら……」よかったね、と娘は言った。――クリスティーナは自分で福島に来てくれたんだよね。それで、自分でおうちに帰るんだよね。よかったね。いま、目の前に伸子の娘がいたら間違いなく抱きしめるだろう。
(中断された展覧会の記憶)

 

 

 

「ああ、それはね、『ゲルニカ』っていう、美術史上もっともセンセーショナルな戦争絵画って言われてるやつだ。いまじゃ、反戦のシンボルにもなってるよ」一九三六年、スペイン共和国で、フランコ将軍率いる反乱軍がクーデターを起こし、スペイン内乱がぼっ発した。その翌年、スペインの地方都市、ゲルニカが、フランコ将軍と結託したナチス・ドイツの空軍によって空爆された。それに激怒したピカソが、一ケ月あまりで描き上げた壁画のように巨大な作品なのだと、説明してくれた。……。
「その作品、第二次大戦中にMoMAに疎開してたんだと。で、戦争が終わっても、ピカソが『スペインに真の民主主義が実現するまで、返還しないでほしい』って、MoMAの当時の館長に依頼してたらしい。その頃、スペインのフランコ政権はファシズムに走ってたからね。で、ピカソが死んでしばらく経って、スペインも事実上民主主義を取り戻したし、もういいだろうってことで、回顧展を機に返還された。つまり、その回顧展は、MoMAで『ゲルニカ』を拝める最後のチャンスだったってわけだ」「そりゃ観客も殺到するさ。なあ?」と、ハリーが間の手を入れた。
(ロックフェラーギャラリーの幽霊)

 

 

 

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そうだとも。目も、毛穴も、心の闇も、全部開いて、見るがいい。あなたこそが「目撃者」。新しい時代の、美の目撃者なのだから。この絵が醜いって? ああ、確かに。この女たちは、人間のかたちをかろうじてしているけれど、人間じゃない。彼女たちが体現しているのは、人間の心の奥深くに潜む闇だ。真実だ。ピカソ以前の芸術家たちが、決して目を向けようとはしなかった、人間の本質だ。人間は汚い。ずるい。醜い。だからこそ、「美」を求める。醜さを超えたところにあるほんものの「美」を求めて、アーティストはのたうち回って苦しんでいるんだ。心地よい風景、光、風、花々、まばゆいほどに美しい女たち。けれど、美しいものを美しく描いて、だから、なんだっていうんだ?アーティストは、美しいものを美しくカンヴァスの上に再現するために存在しているのか?はっとして、顔を上げた。思わず、回りを見回す。
(ロックフェラーギャラリーの幽霊)

 

 

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いつまでも、いつまでも、ここにいたい。この場所に。――マティスとピカソのはざまに。けれど、やがて、展覧会は終わる。そして、この会場を出たら、私は、もうここには戻らない。さびしさに足を搦めとられる思いがした。前に進みたくない気持ちが、急激に湧き上がってきた。ねえローラ、私がいちばん好きなふたりの作品は、これと、これよ。ふいに、セシルの声が蘇った。マティスとピカソのカタログレゾネを眺めながら、セシルがふたつの作品のページに付せんを貼った、あのとき。――この絵、どっちも背中が描かれているでしょう? マティスもピカソも、向こう側を向いている。けれど、ふたりがみつめていた地平は、きっと同じだったはず。ふたりは、何をみつめていたのかな。ねえローラ、どう思う?展覧会の最後の展示室へと、ローラはたどり着いた。いったん立ち止まり、呼吸を整えてから、そっと足を踏み入れた。
(新しい出口)

 

 

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『実は、お別れのプレゼントを用意していたの。私のデスクの一番上の引き出しを開けてみて。ギフトの包みが入っているから』引き出しの中に、銀色のラッピングペーパーで包まれたギフトが入っていた。麻実は待ちきれずに、すぐさま開けてみた。赤と黒の塗り箸が現れた。メッセージが添えられている。「ひとつはあなたのもの。もうひとつは、私が日本へ行ったときに私が使うもの」。麻実は思わず微笑んだ。ランチタイムに、いつものコーヒースタンドに立ち寄った。もうすっかり顔なじみの、ヒスパニック系のコーヒー売り、ジェシーが、「やあ、また来たね」と声をかけた。……。「コーヒーをふたつ。ひとつはミルクと砂糖入り、もうひとつは空っぽで」と注文した。「空っぽで?」とジェシーが返す。麻実はもう一度、うなずいた。右手に熱いコーヒーを、左手に空っぽの紙カップを持って、オフィスヘと帰る。……。デスクヘ戻ると、麻実は、空っぽの紙カップの文字 ―― We Are Happy To Serve You.―― 「We Are」と、「Serve」の中の「rv」の二文字を、サインペンで黒く塗りつぶした。Happy To See You.――あえてよかった。そのカップを、パティのデスクの真ん中に置いた。せいせいと明るい心持ちで、麻実はその日、オフィスを後にした。
(あえてよかった)