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あらすじ
「なんだか、硬いね」ベッドで恋人が乳房の異変に気づいた。仕事と恋を謳歌する咲子の人生に暗雲が翳る。夫との冷えた関係に加え、急に遠ざかる不倫相手に呆然とする。夏の沖縄で四十歳を迎えた女性の転機を描く表題作「夏を喪(な)くす」。揺れる女心の決意の瞬間を、注目作家が鮮烈に綴る。
「天国の蠅」「ごめん」「夏を喪くす」「最後の晩餐」の四編を収録。

 

ひと言
「天国の蠅」を読んだとき、角田光代を読んでいるような錯覚に陥った。こういうマハさんもいいが、やっぱり読了後、爽やかでやさしい気持ちになれる作品の方がいいかな。4つの中では「夏を喪くす」「ごめん」がよかったです。

 

 

話があるのよ。それは、いままで何度となく使ってきたセリフだった。……。何がなんでも会いたいときにだけ、一方的に「話があるのよ」と宣告し、男を誘い出す。実際は話などない。ただ、会いたいだけなのだ。会いたい、という気持ちに、どうして理由が必要なんだろう。

 

 

暗闇の中で点滅する携帯を開ける。メールは、夫からだった。
おかしなことに気づいてしまった。どうやら、僕はもう、君がいなくては生きていけなくなってしまったようだ。気がつくと、君のことばかりを考えている。寝ても覚めても、ただ君のことを。そう気づいて、なんだかおかしくなった。この年になるまで、こんな気持ちになったことは一度もなかった。もちろん恋をしたことはあるし、妻だっている。けれど、こんな苦しい気持ちに責めたてられたことは一度もなかったんだ。僕はいままで、恋をしてる奴らをいましめたり、笑ったりしてきた。いい年して何言ってるんだよ。本気になるなよ。頭を冷やせ。そんなように言ってきた。でもそれは、僕が本当の恋をしたことがなかったからなんだ。そう気づいた。恋をすることが、こんなにも馬鹿になってしまうことだなんて。僕はほんとうの馬鹿だ。君なしでは何もできない、生きる価値もない、ただの馬鹿なんだ。君に会う。そのことだけに、生きる理由をみつけている。そんな男になってしまった。君のせいで。明日夜七時、君の部屋へいく。そう考えただけで、心が舞い上がっている
青白い光を放つ小さな画面に、咲子はじっと吸い寄せられていた。確かに夫から送られてきたメール。しかし、咲子はすぐに、夫ではない誰かの作為を感じ取った。女だ。夫が彼女に送った「送信済み」メールを、わざと咲子に転送した。そう直感した。夫の狂おしい恋心と、彼女の暗い情熱。わずか三センチ四方の画面から、ひたひたと押し寄せてくる。何度も何度も読み返すうちに、疲労のような、鈍痛のような感覚に、咲子は静かに打ちのめされていった。張り裂けそうな、恋文だった。いままでに一度も目にしかことがないほどの。
水平線のちょうど真ん中をめがけてじわじわと落ちていく夕日を眺めながら、そういえば海で日没を見るのは生まれて初めてだ、と咲子は気がついた。幼いころに海水浴にいったこともあるが、何かにいつも夢中の子供にとっては、海に落ちていく太陽などたいした関心事ではなかったのだろう。砂の城が波にさらわれていくさまや、拾って歩いた貝殻の形などをぼんやりと覚えてはいても、こんなに大きく大胆に落ちていく太陽のことをちっとも覚えていない。それどころか、時間をかけて日没を眺めるということ自体、人生のどこかの場面で経験しかことがあっただろうか。気がつけば、いつもせわしなく生きてきた。目の前にこなすべき仕事があり、勝つべき競争があり、進むべき道があった。空いちめんに広がる紅を吸ってたっぷりと肥大した太陽が、急速に水平線に落ちていくわずかな時間に、咲子は日没を眺めたことがなかったいままでの人生を振り返った。……。
夫の携帯から送られてきた、咲子ではない誰かに宛てた恋文。誰かが夫の携帯を操作して、送信済みのメールをわざと咲子に転送してきた。その誰かとは、明らかに夫の女だ。夫の張り裂けそうな恋文を、咲子は暗記するほど何度も読んで、迷った末に削除した。最初に読んだ瞬間からいまに至るまで、このことを夫に問い質(ただ)す気持ちはとうとう生まれなかった。……。心が舞い上がっている。夫の恋文の最後の一文が、ふいに脳裏をかすめる。咲子は小さくため息をついた。水平線上ににじむ夕日を介して、空と海はひとつに交わろうとしていた。その瞬間、太陽が空中に放出する弱々しい最後の光が、叫び声のように聞こえてくるのが不思議だった。

 

 

咲子は夫の恋文を思い出した。ひたむきな力に満ちた言葉のひとつひとつを反芻した。心が舞い上がっている。そんなふうに言ってくれた男は、いままでつきあった中にはいなかったな。そうぼんやり考えた。

 

 

橋の手すりにひとりもたれていた咲子は、ポケットから携帯を取り出した。昨日撮った日没の瞬間が、小さな画面上に光を放っている。「送信済み」のファイルを開ける。最後のメールは、おとといの夕方、羽田で、渡良瀬宛てに送ったものだった。
あなたがこのメールを読むのは、パリから帰ってきた成田でなのでしょう。あなたに会うことは、もうこの先二度とない。そう誓って、最後にメールします。この夏が終われば、私は自分の身体の一部を失っている。乳癌と宣告されたのに、あなたに言えずに今日まで過ごしてしまいました。恋もできない身体になってしまうことを、伝えるのが怖かった。けれど私は、この命が惜しい。まだやらなくちゃならないこと、かなえたい夢があるから。あなたを愛するよりも、不器用に生きていこう。それが私の選択です。明日、島に渡ります。そこで生まれ変われるような、明るい予感がしています。
三回読み返して、「編集」のキーを押すと、本文の最後に一行、つけ加えた。
そう考えただけで、心が舞い上がっている
咲子はそのメールをもう一度みつめ、夫のアドレスに転送した。
(夏を喪くす)