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あらすじ
“尽果”バス停近くの定食屋「まぐだら屋」。様々な傷を負った人間が、集まってくる。左手の薬指がすっぱり切り落とされている謎めいた女性・マリア。母を殺したと駆け込んできた若者。乱暴だが心優しい漁師。そしてマリアの事をひどく憎んでいる老女。人々との関わりを通して、頑になっていた紫紋の心と体がほどけていくが、それは逃げ続けてきた苦しい現実に向き直る始まりでもあった…。生き直す勇気を得る、衝撃の感涙長編。

 

ひと言
マグダラのマリア?。ダン・ブラウンの「ダ・ヴィンチ・コード」がすぐに頭に浮かぶが、マグロとタラをかけあわせたような世にも美味な魚?。与羽はどうなったの?。杏奈が花南を道ずれにする?。2人の左手の薬指のこととか。細かく見ればいろいろ気になるところもあるけれど、そんなことはどうでもいいくらい、この先どうなるの?と気になって一気に読ませるし、最後は泣かされる。マハさんの文章はどうしてこんなにやさしく、疲れた心を癒してくれるんだろう。
マハさん、ありがとう。だいすきよ。

 

 

 

丸弧の告白を、微動だにせず、マリアと紫紋は聞いていた。紫紋は、大きな石でも握るように、両手で拳を固めていた。丸弧の発するひと言ひと言が、恐ろしいほど全身にのしかかってくる。紫紋は、その絶望的な重さにくじけそうになった。全部話し終えて、魂が抜けたように、丸弧はあぐらをかいたままうなだれた。しゃがんで聞き入っていたマリアは、ぴくりとも動かない。どうしたらいいんだ、と紫紋がまぶたを伏せたそのとき。
「お母さんはね。きっかけを作ったのよ」マリアが、口を開いた。紫紋は、そっと目を上げてマリアを見た。「あなたが部屋から出てくるきっかけを作ってくれたんだと思う。だから、いいのよ。これで」丸弧は、目を見開いてマリアをみつめている。その目に、またたくまに涙があふれた。マリアは、いまにもこわれそうなガラスの青年に向かって、静かに両腕を差し出した。「いいのよ」吸い寄せられるようにして、丸弧は、マリアの腕(かいな)に抱かれた。堰を切ったように、痩せてくぼんだ目から涙がこぼれ落ちた。丸弧は、泣いた。声を上げて、赤ん坊のように。マリアは、その背をいつまでも優しく撫でていた。励ましも、慰めも、どんな言葉もかけずに。ただ、聖母のように。
(第十一話 聖母)

 

 

 

けれど、マリアは違った。マリアは、丸弧のいっさいを、ただ受け止めた。いいのよ、というひと言とともに。マリアの腕に抱かれて、声を放って泣いた丸弧。まばゆい聖画を目にしたかのように、紫紋は立ち尽くすばかりだった。涙がこみ上げた。なぜだろう、赦された気がした。――自分までもが。何も問わずに、ただ受け入れる。その行為を丸弧にし得たのは、いままで、たったひとり、彼の母親だけだっただろう。けれど、その母は、もういない。今度は、丸弧がその現実を受け入れる番だった。マリアのもの言わぬ抱擁は、さまよう青年にそう教えていた。丸弧は、そうして、受け入れたのだ。唯一の理解者であり庇護者であった母を失ったことを。このさき、丸弧がどうするつもりなのかわからない。けれど、ここにいるつもりならばそれでもいい。そのほうがいい、と紫紋は考えていた。
(第十二話 奇跡)
 
マリアが、丸弧が言った通り、母は、ただひたすらに待っていてくれた。息子が連絡をよこす日を。いつかふるさとへ帰ってくる日を。もう迷うことなく、紫紋は母に電話をした。そして詫びた。
いままでごめん、心配かけて。ありがとう、待っててくれて。もしもいままでのこと、許してくれるなら――おれ、帰るよ。母ちゃんのところに。だけど、ひとつだけ、頼みがあるんだ。いま、東京から遠く離れた場所で暮らしてるんだ。食堂に勤めて、料理を作ってるんだ。たくさんの人のお世話になったんだ。その人たちに、お返しがしたくて。だから、春まで待ってくれるかな。それまでに、お世話になった人たちに、精いっぱいうまい料理を食べてもらって、ほんの少しでも恩返しして、お礼を言って別れたいんだ。でも、心配しないで待っててほしい。おれ、必ず帰るから。春になったら――。
母は、最初、言葉もなく、ただ泣いていた。やがて、言ってくれた。
思う存分恩返しをしなさい。人生で一番おいしい料理を作りなさい。それから帰っておいで、と。
(第二十話 帰郷)

 

 

マリアの背後、ずっと遠くに、豆粒のようなバスの影が現れた。胸に募る思いのすべてを伝えるには、バスが到着するまでの時間は短すぎた。けれど紫紋には、どうしても、マリアに伝えたいたったひと言があった。紫紋は、持てる勇気のすべてを振り校って、マリアに向かい合った。世にも不器用な告白をす
るために。「マリア。おれ、あなたを――」
その刹那、紫紋を包みこんだのは、はたして春風だっただろうか。花の香りに、ふわりと抱かれた。紫紋の首筋に触れる、やわらかな頬。

 

 

ありがとう。だいすきよ。

 

 

幻のような囁きを聞いたかと思った瞬間、ふたりのすぐそばにバスが停まった。プシュウッと音を立ててドアが開く。紫紋は、何も言えないままで、ほんの一瞬、マリアの体を抱きしめた。思いのすべてをこめて。思ったよりも、ずっと小さくはかない体。けれど、しなやかな命の輝きに満ちあふれていた。
(第二十話 帰郷)