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あらすじ
行方不明者の家族は遺族と呼んでいいのだろうか?東日本大震災から二年。いまだ行方不明者約二千七百人。娘を捜し続ける父、妻の勤務先に説明を求め続ける夫、親子二代で地域復興に頑張る経営者…行方不明者と共に生きようとする家族たちの想いを描いたヒューマンドキュメント。

 

ひと言
東日本大震災から明日で4年、毎月10日、今日 警察庁から発表された 行方不明者の方は2584名(死者数は15891名)
大切な人との別れは、誰もがつらい。でも大切な人が行方不明という、いつまでも心に踏ん切りがつけられない別れ、自分ならこんなつらい別れ方に耐えられるだろうか。
明日で4年目を迎える行方不明のご家族に、かけてあげる言葉も見つけられないが、1日でも早く、一人でも多くの方が、ご家族のもとに戻られることを心からお祈りしています。

 

 

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行方不明者の家族は、黄泉の国への旅立ちを送る人たちではなく、いなくなった相手を心のどこかで捜し続ける人たちである。そこには癒えない疵が生のままで残されている。私たちは「生者」と「死者」に二分してとらえるが、「行方不明者」という存在があり、その人たちとのつながりが続いていくなら、そこにはもう一つの現実があることになる。目には見えないけれど、心の中で確かに存在するものがあるはずだ。まだ帰らない人と共に生きていこうという家族が発しようとしているものがあるなら、それを受け止め、伝えていければと不遜ながら思った。
(はじめに)

 

 

家族の「最後の様子」も、周囲の人たちの話で分かってきた。地震の後、王太朗さんは児童館に汐凪ちゃんを迎えに行った。汐凪ちゃんは「じいちゃんが来た!」とうれしそうに飛びついて、手を振りながら出て行ったという。間もなく深雪さんも児童館にやってきたが、汐凪ちゃんは帰ったことを知らされると、家に向かったそうだ。三人は自宅で顔を合わせたと、木村さんは確信している。そこでどんな言葉を交わしただろう。
(第一章 自分で捜せない、大熊町の苦難)

 

 

「見つかるのはうれしいかって? いや、暗い気持ちになりますよ、出てくる答えは家族の死。その最悪の結果を突きつけることになるのだから、楽しいはずがない。好きになれない仕事だよ。でもやめるわけにはいかない。行方不明の人たちは、みんな帰りたいと思っているんだ。その人たちをこのまま放っておいていいわけがないだろう。見つけなかったら家族は遺族になれない。遺族になったらちゃんとお葬式もできるし、墓参りもできる。ちゃんと供養できることに意味があるんだ」
消防隊も自衛隊もいなくなった今も、毎朝田中さんが犬を連れて現場に出かける姿を見ると「ああ、まだ忘れられていない」と、少し元気を取り戻す家族がいる。「毎日捜している人間がいるから、正気を保っていられる人もいると思うよ。そういう人にとって、俺は最後の砦らしいよ」
(第一章 自分で捜せない、大熊町の苦難)

 

 

ナンバーから割り出して連絡を受けたYさんの遺族や親戚が見守るなか、きれいに洗われたYさん夫妻の遺体が姿を見せる。一部が白骨化していたが、顔まで見分けがつくほど生前の姿を留めた遺体に、親族たちは泣きながら抱き合い、見つかったことを喜んだ。Yさんの娘は「二人一緒にいられたんだね」と遺体に語りかけると、「ありがとうございました」と、門馬さんたちに深く頭を下げた。「ほっとしたのと同時に、これからも続けていかなくてはと改めて思いましたね」翌日、門馬さんはYさん夫妻の眠っていた地点に潜り、重しをつけた花束を沈めた。遺体が見つかる度に行う、門馬さんだけの儀式である。
(第三章 捜す人々)  

 

 

「子どもを失い、後を追ってもおかしくない時期も確かにありました」と裕美さんは語る。「家で布団をかぶったまま、一歩も外に出ない人生になったかもしれません。でも、そんなことをしてると、”いつまでもメソメソしてるんじやねえよ”と、娘に怒られるでしょう。行方不明というのは、周りの人たちもどう対応していいか分からないという感じになります。私たちの方が、窓を開けて行かないと。私たちが一日も早く立ち直らないと、娘がかわいそうだと思いましたね」
……。
死を認めることと、死者として扱うことは、イコールではない。瀬尾さん夫妻は、住苗さんがこの越喜来で元気に過ごしていることを信じている。それは心の現実である。心の現実が続く限り、佳苗さんは活き活きと生き続けるだろう。「必死に捜してくれなくても、会いに来てくれればいいよ、と娘が言っているような感じです。私たちがここまでこられたのは、彼女が姿を現さなかったからだと思います。姿を見ていたら、越喜来に再び来ることはなかったかもしれない。姿を見せないのが親孝行かなとも思います。一生懸命生きていれば、必ず会える時が来るでしょう。彼女はここにいるから、私たちは会いに来るのです」
(第四章 海に嫁いだ娘)

 

 

六月一一日、親戚皆が自宅跡に集まり、初めての供養を行った。皆が土台の上に花を供え、線香をあげ始めたが、麻野さんはどうしても花も線香もあげる気にはならず、独り、家の周囲をぐるぐると歩き続けるしかなかった。「それから毎月一一日には子どもたちや親たちと自宅跡にお参りに行くようになりました。でも、私はお花は供えられるけど、お線香はあげられないんです。今もそうですね。誰かにお線香を渡されたときだけ、形だけという感じでやっていますけど」
(第六章 子どもたちとここで生きていく)

 

 

「今、どこにいるのだろうと思いますね。毎日お線香をあげて拝んでいるんですが、思うのはどこにいるのか、ということです。骨の一本でも見つかってほしいと切望しているんですけど……。亡くなった時の光景を考えると、いたたまれないものがこみあげますよ。きっと尋常な苦しさではなかったろう。溺れたのか、何かに潰されてしまったのか……。今回のことは、いちばんの試練です」ヤス子さんの“今”をどうしても知りたくて、先日は妻の易寿子さんに遠野の巫女のところまで訪ねてもらった。そこではヤス子さんは寒いとも苦しいとも訴えなかったという。「ああ、水の中で苦しんで亡くなったわけではなかったんだなと思うと気持ちが安らぎました。…、どこかで穏やかにいてくれているようでよかったなと思いました」
(第七章 津波との因縁、親子二代の地域復興)

 

 

「今、どこにいる?」は“その人”とのつながりの原点を表す言葉かもしれません。
(あとがき)