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あらすじ
NHKラジオ深夜便で取り上げられた感動の書! 沖縄本島に無数あるガマ(壕)。戦後、何十年もの間、その洞窟に入って遺骨を掘り続ける人たちがいます。「沖縄の戦争は、まだ終わってはいない」と、戦禍を風化させない一心で、彼らはスタッフや費用の困難に向き合いながら、その作業を続けています。ガマのなかでアメリカ兵から身を隠して暮らし、ガマに爆弾や毒ガスを投げ込まれて息絶えた人々の存在を、生々しくいまに伝える痕跡。そのなかから、「すずり」「目覚まし時計」「アルバム」をめぐる現在と過去の物語を描きます。モノたちから浮かび上がってくるのは、運命的に助けられた命や最期の瞬間まで人間であろうとした命、そして、戦後何十年経ったあとで大切な家族の死に方に対面する人々の思いです。

 

ひと言
2014年6月に出版された本で、2011年7月 家族で沖縄へ旅行に行った時に訪れた旧海軍司令部壕やひめゆり平和祈念資料館で見たガマ(壕)のことを思いだしながら読みました。8月6日や8月9日に比べ、6月23日が何の日なのかはあまり知られていません。現代に生きる者の責任として、もっとこの悲惨な沖縄戦のことを多くの人に知ってもらい、2度とこのような悲惨な、被害者でもあり同時に加害者でもある沖縄戦を絶対に繰り返さないとの誓いをこの本を読んで新たにしました。
シマンチュ、カフー アラシミソーリ

 

 

五月十一日、ついにアメリカ軍は、首里城に向けて総攻撃を開始した。そのときすでに、沖縄の日本軍は約六万人の兵を失い、壊滅は時間の問題だった。五月二十二日、地下洞窟の司令部に集まった参謀たちは、一様に沈痛な面持ちを浮かべていた。「このまま首里城の司令部に立てこもり、最後の一兵になるまで戦い抜く」参謀たちは、みなそう考えているはずだった。そのため、ある参謀が言い出した次の作戦には、少なからず驚かされた。「われわれの任務は、一日でも長く沖縄で敵軍と戦い、本土決戦準備のための時間稼ぎをすることである。このまま首里城の地下洞窟に立てこもっていれば、短時間で負けてしまうだろう。われわれは一刻も早く首里から出ていき、南に十三キロほど離れた摩文仁に移動し、そこに新しい司令部をつくって戦うべきだ」当時の日本軍は、沖縄戦に勝利したアメリカ軍が日本の本土、つまり、九州、四国、本州へと上陸したときにこそ、最後の決戦に挑むと決断していた。そのためには本土での戦闘に向けた準備を進める時間が必要となる。そのために、首里城の司令部を他の場所に移して、できるだけ長い時間、沖縄でアメリカ軍の進撃を食い止めようと、この作戦を提案した参謀は考えたのだ。だが、そのような考えは、もっとはっきり言えば、本土決戦に備えるための時間稼ぎに、沖縄を犠牲にしてもやむを得ないということを意味していた。
(第一章 哲也の硯)

 

 

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石に刻まれた家族の名に
涙を落とす祖母
なんの形見も残っていない石に
声にならない声で
石をさすり
石をだきしめる
小さな声でとても小さな声で
「本当は話したくないサー」
少し首をかしげて
空を見上げる
人さし指の大きさの大きな傷
あごと左腕に残る
戦争の傷あと

 

 

祖母は傷の手当てをするために
水くみに行った
防空ごうに姉を残し 母と二人で
そのあとすごい光と音が…
そのまま姉はもどらなかった
「いっしょに連れて行けばよかった」
「ごめんね ごめんね」
と何度も何度も
きたときよりも
石を強くさすり
石を強くだきしめる

 

 

ぼくはもう声を上げて泣いていた
そして祖母の背中をずっとさすった
こんな青い空に
こんなおだやかな沖縄に
戦争は似合わない
祖母のくしゃくしゃな涙も
似合わない

 

 

そんな祖母はもう今は歩くことが
できない
毎日毎日空を見て
きっと
生きている喜び
生き残った悲しみを感じて
いるのだろう
ぼくは車イスをおして
祖母のいのりを引きつぐ
戦争のない平和な国を

 

 

真っ黒に日焼けした丸刈りの少年は、ひどく緊張した面持ちで一礼すると、「平和のいのり」と題する自作の詩を朗読した。二〇〇九年六月二十三日、糸満市摩文仁にある平和祈念公園の広場。沖縄は戦後六十四年目の「慰霊の日」を迎えた。全国各地から沖縄に集まった遺族は、ほとんどが高齢者だった。その厳かな雰囲気のなかで、詩というかたちで平和を伝えたのは、南城市立大里北小学校六年の比屋根憲太だった。詩のなかにある、彼の祖母が泣いたという場所、それは「平和の礎」の前を指している。刻まれた家族の名前の前で泣く祖母の姿を詠んだこの詩は、「第十九回児童・生徒の平和メッセージ展」で最優秀賞を受賞し、この年の沖縄全戦没者追悼式で発表されることになった。
(第三章 夏子のアルバム)

 

 

いままで隠してきたことを謝り、自分の姉であり、初美の母である夏子について、すべてを打ち明けた。
母の死は、初美にとって想像していたより悲しく、みじめなものだった。初美は泣いた。そして、本当は叔母だったとわかった紀子に、こう尋ねた。「母さんは、きれいな人だったの」「初美に似て、とてもきれいな人だったよ。私は姉さんみたいになりたかった……」「私、母さんの顔が見たい。写真はないの」紀子は言葉に詰まった。そして、怒りがこみ上げてきた。母をアメリカ兵に殺されたあの日、空っぽになった防空壕のことをはっきりと思い出したのだ。「戦争で勝った者は、なにをしてもいいのか!」と叫びたかった。「……姉さんのだけじゃなく家族の写真はね、戦争中にぜんぶなくなってしまったの……」初美は、それ以上、なにも言わなかった。それから数週間後のよく晴れた日に、初美は亡くなった――。
紀子の話を聞いて、ゴードンは頭を抱え、急に立ち上がったかと思うと、大声で叫んだ。「私はなんという過ちをおかしたんだ!」ゴードンの脳裡には、六十四年前の光景が鮮やかによみがえっていた。
……。……。
ハイスクールに通うゴードンの孫が、「もう、がまんできないよ」と憤って声をあげ、客の前だというのに自分の祖父に食ってかかったのだ。「おじいちゃんは、いつもいつも戦争で勝利したって自慢話をしているけれど、いいかげんによしてくれないか! このアルバムは戦利品なんかじゃない。沖縄の人の大切なアルバムを、おじいちゃんは盗んできただけじゃないか!その人は、家族の思い出を奪われたんだよ。そう思わないの?」孫はそう叫ぶと、会場から出ていった。
……。……。
私が沖縄でしでかした行為は、人として最低の行いでした。アルバムは、思い出の固まりです。そこに家族の愛や笑い声が詰まっています。自分の家族を振り返れば、そんなことは簡単にわかることです。しかし、私にはそれがわかっていなかった。それどころか、沖縄戦で日本人を傷つけたことを自分の強さの証拠であると信じて、この年まで生きてしまった。しかも、醜いことに、あなたのお姉さまのアルバムを材料にして、戦争の手柄を自慢してきたのです。孫に言われてから、そのことに気づきました。それ以来、私は、『このアルバムを手元に置いておきたくない。沖縄の持ち主に一刻も早くお返ししたい』と、そればかりを考えていました。そうしなければ、死んでも死にきれません。しかし、お返しするのがあまりにも遅かった……。初美ちゃんが生きているうちに、お母さんの写真を見せてあげたかった……」
(第三章 夏子のアルバム)