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あらすじ
2011年3月11日。人々の価値観や生き方が、大きく変えられてしまった「あの日」。それでも人には、次の世代につなげるべきものがある。幾度となく被災地に足を運んだライター・田村章と、中学受験に失敗し不登校になってしまった少年。二人は、そこでどんな人に出会い、どんな涙を流し、どんな新たな幸福への道すじを見つけたのか。去ってゆく者、遺された者の物語を書き続けてきた著者が、「希望」だけでも「絶望」だけでも語れない現実を、被災地への徹底取材により紡ぎ出し、「震災後」の時代の始まりと私たちの新しい一歩を描いた渾身のドキュメントノベル!

 

ひと言
図書館で 重松 清 3.11 という文字を見つけて、今年の最後に読む1冊はこれにしようと思って借りました。
西国三十三所を巡る途中の電車の中で読んで、「あかん」 泣きそうになると読むのを中断して、周りに人がいなくなるとまた読みました。
心が風邪をひきそうなときに いつも読者に寄り添った重松 清さんの心やさしい文章に、いつも勇気や元気をもらっています。
震災後、被災地へ行きたい 行きたい と思いながらずっと行けていませんが、そのときは宮古市の「浄土ヶ浜パークホテル」にも泊まりたいです。

 

 

来年は、まだ震災から立ち直れない人、明日を信じて頑張っている人たちが
笑顔になれる日が1日でも多くありますように!

 

 

 

震災を生き抜いた子どもたちが真新しいランドセルを背負って小学校の門をくぐる光景は、確かに微笑ましく、希望に満ちたものだろう。けれど、その陰には、入学を心待ちにしながら亡くなったたくさんの子どもたちがいる。テレビを観ている人の中には、我が子を失った親もいるはずなのだ。そんな人たちは、東京のスタジオでコメンテーターが口にする「よかったですねえ」「被災地も前を向いてがんばってるんですね」といった言葉を、どんな思いで聞くのだろう………
 「『復興』の先頭を伝える役割を持った番組もあると思うんです。でも、私たちの番組は、最後尾にいる人たちを支えていきたい。立ち直るスピードは、みんなそれぞれ違うんですから」被災者の皆さん、がんばってください――。震災の直後、数えきれないほど目にしたり耳にしたりした言葉である。けれど、津田さんはある日の『被災地からの声』で、こう言った。
「がんばれる人だけが、がんばってください。無理のできない人は無理する必要はありません」キャスターとしては異例の発言かもしれない。けれど言わずにはいられなかった、という。「被災者の方々がこのままでは浮かばれないと思ったんです。この人たちが浮かばれるために自分が言うべき言葉がある」それがすべてなんですよ、と津田さんはきっぱりと言った。
(第一章 被災地に/ 被災地から伝えたいこと)

 

 

 

 

「ハローワークに相談しても、とにかく通常の状態ではありませんから、ひたすら『解雇してください』と言うんです。ふだんとは逆ですよね。従業員を解雇すれば会社の負担はなくなるし、解雇された従業員も国から失業手当が支給されるので、ハローワークはそれを勧めるわけです」でも、と阿部さんはつづけた。「私は、それは違う、と思ったんです。解雇という選択肢は確かに簡単だけど、会社と従業員との信頼関係はどうなってしまうんだ、と。いま住む家がない、食べるものがないという状況ですから、ここで従業員との関係を断ち切ってしまうと、もう修復できないと思ったんです」阿部さん自身、自宅を津波で流されてしまい、奥さんと二人の息子さんは避難所生活をつづけていた。だからこそ、家族を失ったり家を流されてしまった従業員の不安な気持ちは痛いほどわかる。さらに、津波は、阿部さんにとって公私ともども大切な相棒だった一人の従業員の命を奪っていた。「私と中学高校で同級生だった工場長が、津波に呑まれて亡くなってしまいました。私がお願いしてウチの会社に来てもらったんですが、とても信頼の置ける男で、私の代わりに工場をまとめてくれていました。津波に呑まれたのも、従業員に避難を呼びかけるために工場に最後までとどまっていたからだったんです。友人であり、同志であり、私ことって最高のパートナーだった彼が命をかけて植え付けてくれた精神は、やっぱり守り抜きたいんです」
…… 。……。
なにより阿部さん自身、「ここで解雇を決断できないのは、経営者としてダメなんだろうな」と内心では認めているのだ。それでも、どうしても解雇に踏み切ることはできなかった。なにかがブレーキをかけている。その「なにか」の正体が、四月に入ってわかった。「大船渡に去年建てたばかりの工場を見に行ったんです。その工場も、近くの貯木場から流れてきた三トンも四トンもある丸太に直撃されて、ひどいことになっていたんです」
…… 。……。
「七千尾から八千尾の魚が四月頃には腐りはじめていましたから、それをなんとかしなくては……と現地に向かったんです」そこで阿部さんが目にしたのは、従業員が工場を埋め尽くす瓦疎の片づけや掃除をおこなっている光景だった。会社の命令や指示ではない。雇用継続か解雇かの不安を背負いながらも、従業員たちは自主的に集まって、「一日でも早く工場が再開できるように」と、いま自分たちにできることをやっていたのだ。四月に入社予定だった女の子たちもいた。震災で入社が延期になり、いつ仕事ができるのか目処すら立たないなか、高校を卒業したばかりの彼女たちは、腐った魚の異臭が立ちこめる工場で、全身泥まみれになって、黙々と働いている……。気仙沼や石巻の工場でも同じだった。従業員は自主的に集まって、瓦蝶を片づけていた。家族を亡くし、家を失った従業員にとって、工場の再開は、自分自身の再出発でもあったのだ。そんな従業員の姿に、阿部さんもついに決断した。どんなに資金繰りが大変でも、雇用を守る――。もうブレない。揺らぐことはない。「父親の判断にそむいて ここまで自分の意見を貫き通したのは、社長になってから初めてだったかもしれません」照れくさそうに笑う阿部さんの目は、うっすらと赤くなっている。大船渡の工場の話をしたときから、目が潤んでいたのだ。やはり、優しい。その優しさに強さが加わった二代目社長の体は、急に一回り大きくなったように見えた。
(第七章 社長たちの奮闘)

 

 

 

ごめんなさい――。誰でもない誰かに謝った。津波で亡くなった人たちは、ゆるしてくれるだろうか。かけがえのない家族を津波に奪われた人たちは、思い出の詰まった我が家を失った人たちは、原発事故でふるさとを離れざるを得なくなった人たちは、どうなのだろう。被災者のことを思えば、不登校なんて――そうぃう発想も、やはり、自分勝手で傲慢なのだと思う。
ごめんなさい――。何度も繰り返した。途中から自然と手を合わせていた。つぶった目から涙もあふれてきた。ごめんなさい――。
ほんとうは、そうではない言葉をつかいたい。もっと大切な言葉が、絶対にあるはずなのに、それが見つからないのだ。
(第九章 リレーのバトン)