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あらすじ
終戦直前、挙式を間近に控えていた穴沢利夫少尉は、知覧から飛び立ち還らぬ人となった。婚約者へ宛てた手紙では、自分のことは忘れて幸せに生きよと綴りながら、最後に、ほとばしる感情を吐露していた―「智恵子会いたい、話したい、無性に」。戦後六十二年。残された婚約者が、今なお穴沢さんを想いながら語り尽くした貴重なノンフィクション。

 

ひと言
死ぬまでに必ず訪れたい場所がある。
鹿児島県南九州市にある「知覧特攻平和会館」だ。
鹿児島中央駅からでも、まだ1時間半ほどかかる場所にあり、昔から行きたい行きたいと思いながら、もう50歳を過ぎる年になってしまった。
知覧のほか宮崎の都城など九州各地から多くの若者が出撃し1036名もの若者が特攻で戦死した。
知覧からの出撃は439名と最も多い。

 

 

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他にも出撃基地はたくさんあるのに 多くの人が知覧に行きたいと思うのは、知覧特攻平和会館の初代館長 板津 忠正さん(陸軍特攻第213振武隊として出撃されたがエンジントラブルのため徳之島に不時着)が1995年(平成7年)まで50年という気の遠くなるような歳月をかけて全国を行脚し集めた全戦死者1036名の遺影がここにあるからだ。知覧に行けば、命をかけてこの国を守ったすべての英霊に手を合わせに行くことができる。

 

 

全国を行脚し遺影・遺品を集めた板津忠正さんの心の支えは、富屋食堂の鳥浜トメさんだった。挫けそうになると「あんたが生き残ったんは、特攻隊のことを語り残す使命があったからなんじゃないの」と励ましてくれ、なんとか鳥浜トメさんが生きているうちに、全員の遺影を集めようと頑張りましたが、残念ながら、1991年(平成3年)に鳥浜トメさんはお亡くなりになってしまった。「あと三名だったんですよ。悔しくってねぇ・・・・・」

 

 

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特別攻撃隊員が語った言葉
「九分九厘成功の見込みのない特攻。なぜ見込みのないのにこのような強行をするのか。
ここに信じてよいことがある。
いかなる形の講和になろうとも、日本民族が将に滅びんとする時にあたって、身をもってこれを防いだ若者たちがいたという歴史の残る限り、五百年後、千年後の世に必ずや日本民族は再興するであろう。」

 

 

 

「思い出は懐かしむもの。おぼれるものではない」と、何かに書かれてあるのを見て、その通りだとはわかっていても、利夫さんと生きた時代におぼれそうになりました。そんなとき、利夫さんの遺書を思い出しました。彼は遺書に、「穴沢は現実の世界には、もう存在しない」と、書きながら、「智恵子 会いたい、話したい、無性に」と、最後に残していました。
私は未練という言葉があまり好きではありませんが、利夫さんのこの最後の言葉は、彼の純粋な未練であると思えました。そして、利夫さんがこの世へ未練を残しているのなら、私は思い出にひたるばかりではなく、あの人の遺志を継いで一緒に生きていこうと決めました。
彼が目指していた家庭生活や読みたかった本を、私の心の内に存在する利夫さんと一緒に経験していこう、こう思ったのです。もちろん、生きていることがむなしくてならないと思えるときもありました。けれども、利夫さんが言い残してくれたような、明るく朗らかな人間になれているだろうかと考えることで、絶えず自分を鼓舞してきました。彼の未練は、私に精神的な意味でも力を送ってくれたのです。(第四章 特攻)

 

 

 

翌日は、学徒兵の方たちに開聞岳の麓まで連れていってもらいました。開聞岳は利夫さんが最後の旋回をしていったところだと、笙子さんからは聞いていました。おみやげ物屋さんに入ると、夕方の開聞岳を撮った写真のパネルが一枚だけ置かれています。これが、利夫さんが最後に見た景色かと思うと、私は買わずにはいられませんでした。今でも、その開聞岳の写真を見るたびに、利夫さんがこの美しい山を眺めながら、どんな気持ちでいたのだろうかと思います。
その後も度々知覧を訪れる機会がありましたが、知覧の人たちの情の深さには、頭の下がる思いです。街中から離れた飛行場の跡や三角兵舎の跡を、私は利夫さんの面影を見ようとその時々に訪ね歩きました。バスの時間に合わず、バス停にひとりたたずんでいると、若い女性でも、農作業中の男性でも、通りがかった人はみな、「バスを待っているんですか。どこまででしょう? 送っていきますよ」と、声を掛けてくれました。その温かさに触れ、利夫さんも最期まで情の篤い人たちに囲まれていたのだと思い、安心したものです。(第四章 特攻)