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あらすじ
「娘に会うまでは死ねない、妻との約束を守るために」。そう言い続けた男は、なぜ自ら零戦に乗り命を落としたのか。終戦から60年目の夏、健太郎は死んだ祖父の生涯を調べていた。天才だが臆病者。想像と違う人物像に戸惑いつつも、一つの謎が浮かんでくる―。記憶の断片が揃う時、明らかになる真実とは。涙を流さずにはいられない、男の絆、家族の絆。

 

ひと言
ずっと読みたかったがなかなか借りられなかった本がやっと借りられた♪。
600頁弱、寝る間も惜しんで2日で読んだ。
珊瑚海海戦で、自らの命を捨てて味方攻撃機を誘導した索敵機の搭乗員、ミッドウエイで零戦を低空に集めさせ、急降下爆撃機の攻撃を成功に導いた米軍の雷撃機。両親に、澄み切った心で死んでいった息子の姿を見せたいという思いで書かれた特攻隊員の遺書。などなど、涙なしに読むことができなかった。
戦争という不幸な時代を生きた若者たちなのかもしれないが、何のために死ぬかというはっきりとした目標を持つことができた若者たちに対して少し羨ましく思う。自分は何のために死ぬことができるのだろう。

 

 

 

―なぜ「零戦」と呼ばれたか、ですか。零戦が正式採用になった皇紀二六〇〇年の末尾のゼロをつけたのですよ。皇紀二六〇〇年は昭和十五年です。(第三章 真珠湾)

 

 

 

 

翌朝、双方の空母部隊は再度、索敵のために偵察機を出しました。この時「翔鶴」の偵察機は敵空母を発見した後、燃料ギリギリまで敵艦隊と接触を続け、その位置を知らせました。「翔鶴」と「瑞鶴」からただちに攻撃隊が発進しましたが、その途中、攻撃隊は母艦に帰還中の偵察機とすれ違いました。その時、偵察機は反転し、味方攻撃隊を敵空母まで誘導したのです。偵察機が帰艦途中ということは燃料がもうないということです。その飛行機が味方攻撃隊を敵まで誘導するということは、自分たちがもう生きて戻れないことを意味します。その偵察機は九七式艦上攻撃機で、機長は偵察員の菅野兼蔵飛曹長という人です。同機の操縦員は後藤継男一飛曹で電信員は岸田清治郎一飛曹でした。三人は味方攻撃隊の必勝を願って自らの命を捨てたのです。(第三章 真珠湾)

 

 

 

歴史にタラレバはありません。あの戦いも運が悪かったわけではありません。やろうと思えば、もっと早くに発進出来たはずなのです。陸上用の爆弾でも何でも、先に敵空母を叩いてしまえば良かったのです。それをしなかったのは驕りです。またこの時、米軍の雷撃機は護衛戦闘機なしでやってきました。雷撃機が護衛の戦闘機なしで攻撃するなど、自殺行為です。現実に零戦にすべて堕とされました。しかし結果として、それが囮の役目になりました。母艦直衛の零戦は雷撃機に気を取られ、上空の見張りがおろそかになりました。その間隙を突かれ、遅れてやって来た急降下爆撃機にやられたのです。これはたしかに運が悪かったと言えますが、私にはそうは思えません。後に知ったことですが、米軍は日本の空母部隊を発見した時、とにかく一刻も早く攻撃しようと、戦闘機の配備が間に合わなかったにもかかわらず、準備の整った攻撃隊から順次送り込んだというのです。私はこの時の米軍の雷撃機の搭乗員たちの気持ちを考えると胸が熱くなります。彼らは戦闘機の護衛なしに攻撃するということがどんなことかわかっていたはずです。「ゼロ」の恐怖を十分に知っていたはずです。自分たちはまず生きては帰れないだろうと覚悟したに違いありません。にもかかわらず彼らは勇敢に出撃しました。そして必死に我が空母に襲いかかり、零戦の前に次々と墜とされていきました。しかしその捨て身の攻撃が、母艦直衛機の零戦を低空に集めさせ、急降下爆撃機の攻撃を成功に導いたのです。
私はミッドウェーの真の勝利者は米軍雷撃隊ではないだろうかと思います。珊瑚海海戦で、燃料切れを知りながら、味方を誘導した我が索敵機の搭乗員も、この時の米軍の雷撃機も、戦争に勝つために自らの命を犠牲にしたのです。(第三章 真珠湾)

 

 

私の言葉を、遮るように小隊長は言いました。「たしかにすごい航続距離だ。千八百浬も飛べる単座戦闘機なんて考えられない。八時間も飛んでいられるというのはすごいことだと思う」「それは大きな能力だと思いますが」「自分もそう思っていた。広い太平洋で、どこまでもいつまでも飛び続けることが出来る零戦は本当に素晴らしい。自分自身、空母に乗っている時には、まさに千里を走る名馬に乗っているような心強さを感じていた。しかし――」そこで宮部小隊長はちらと周囲を見ました。誰もいないのを確かめてから、言いました。「今、その類い稀なる能力が自分たちを苦しめている。五百六十浬を飛んで、そこで戦い、また五百六十浬を飛んで帰る。こんな恐ろしい作戦が立てられるのも、零戦にそれはどの能力があるからだ」小隊長の言いたいことがわかりました。「八時間も飛べる飛行機は素晴らしいものだと思う。しかしそこにはそれを操る搭乗員のことが考えられていない。八時間もの間、搭乗員は一時も油断は出来ない。我々は民間航空の操縦士ではない。いつ敵が襲いかかってくるかわからない戦場で八時間の飛行は体力の限界を超えている。自分たちは機械じゃない。生身の人間だ。
八時間も飛べる飛行機を作った人は、この飛行機に人間が乗ることを想定していたんだろうか
(第五章 ガダルカナル)
 

 

 

特別攻撃隊は「神風特別攻撃隊」と名付けられた。カミカゼではない、その時は「しんぷう」と読んだ。もっともそれ以降は「かみかぜ」と呼ばれるようになっていたが。そして隊ごとに「敷島隊」「大和隊」「朝日隊」「山桜隊」と命名された。これは本居宣長の「敷島の大和心を人とはば朝日ににほふ山桜花」という歌を由来にしたものだった。(第七章 狂気)
 

 

 

「遺族に書く手紙に『死にたくない! 辛い! 悲しい!』とでも書くのか。それを読んだ両親がどれほど悲しむかわかるか。大事に育てた息子が、そんな苦しい思いをして死んでいったと知った時の悲しみはいかばかりか。死に臨んで、せめて両親には、澄み切った心で死んでいった息子の姿を見せたいという思いがわからんのか!」……。……。
「戦後多くの新聞が、国民に愛国心を捨てさせるような論陣を張った。まるで国を愛することは罪であるかのように。一見、戦前と逆のことを行っているように見えるが、自らを正義と信じ、愚かな国民に教えてやろうという姿勢は、まったく同じだ。その結果はどうだ。今日、
この国ほど、自らの国を軽蔑し、近隣諸国におもねる売国奴的な政治家や文化人を生み出した国はない
 ……。「……。しかし、下らぬイデオロギーの視点から特攻隊を論じることはやめてもらおう。死を決意し、我が身なき後の家族と国を思い、残る者の心を思いやって書いた特攻隊員たちの遺書の行間も読みとれない男をジャーナリストとは呼べない」(第九章 カミカゼアタック)