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あらすじ
旅、日常が新鮮に愛おしくなる角田マジック。「旅」と「モノ」について、作者ならではの視点、本音が満載の1冊。読み進めていくと「どうして私の気持ちがここにあるんだろう」とびっくりするほど共感するとともに、新鮮な奥深い視点をそこかしこに感じます。そして読後は、心がほっこり癒されます。身近に感じられる思いをたくさん紡ぐことによって、一冊を読み終わる頃には日々暮らすことを愛おしむ気持ちがじわっとわいてきます。

 

ひと言
久しぶりに角田さんの本を借りた。角田さんの本は読みやすく、「はっと」させられるような言葉がちりばめられていて、やっぱり自分にとってはすごく好きな作家なんだなぁとつくづく思った。

 

 

子どもの心で、子どもの財布での旅しか、私はずっとできないのかもしれない。それが、私の作り上げてきた私に相応な「分」なのだろう。最近、そういうことがだんだん受け入れられるようになってきた。開きなおりではない。あんまりかっこよくない自分を、許すことができるようになってきた(あとがき)

 

 

そして二〇歳の私になかったいちばん大きなものは、余裕だったと思う。異国を旅することがほとんどはじめてだった。何かしなきやいげない、と私は思いこんでいた。何か体験しなくちやいげない、何か見なくちやいげない、何か味わわなくちゃいけない、何か買わなくちゃいけない、充実した旅にしなければいけない、だってこんなに遠くにきたんだもの。そういう思いがあった。がつがつと観光をしまくったのは、自分を知らなかったせいでもあるが、余裕かなかったせいでもある。ニューヨークなんだから、とミュージカルを見にいっては時差ボケで堂々と居眠りをし、当時危険と言われていた地域にわざわざいってびくびくと歩き、「ここにはいったい何があるわけ?」と首を傾げたりした。(大人になったからこそ)

 

 

幾度目かのヨーロッパで、ようやく私は気づいた。アジアは水で、ヨーロッパは石なのだと。水に自分を投じれば、ものごとは勝手に動いていく。何も決めずとも、水の流れるほうに身をゆだねていれば、景色は勝手に変わってくれる。目指したところと違う場所に流れ着いている。石はそうはいかない。石の上に座っていても、何も動かない。石に陽があたり、翳り、そして夜になるだけ。その場から自力で動かなければ、どこにも行き着かないし、景色は何も変わらない。もしかしたら、これは文化とも呼べるのかもしれない。じつにおおざっぱな括りではあるが、アジアは水の文化であり、ヨーロッパは石の文化である。(石か、水か)

 

 

人と知り合う、場所と知り合うということは、こういうことなのだと思う。だれかと知り合い親しくなる、ということは、かなしみの種類を確実に増やす。ミャンマーを旅しなかったら、こんなにも好きにならなければ、私はかなしみも衝撃も感じなかったに違いない。ならば、だれとも、どことも知り合わなければいい、とは私は決して思わない。かなしみの種類が増えることは不幸なことではない。かなしむことができる、それを不幸だとはどうしても思えないのだ。(雨は降り、いつか陽はさす)