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あらすじ
男に従属しないで自由に生きる女を支えているものは何か?情熱の純粋さにいのちを賭け、より多く愛し、より多く傷ついた著者の半生が語りかける愛による人生の意味の再発見。

 

ひと言
図書館でこの本の「はじめに」を何気なく眺めていたとき、その最後に書かれている
多く愛し、多く傷ついた魂にこそ浄福を。」という言葉に目がとまった。
浄福…信仰によって得られると信じられている幸福。
後の解説によれば、この「ひとりでも生きられる」を刊行した後、その年(昭和48年)のうち、五十一歳の瀬戸内さんが「寂聴尼」の法名によって仏門に入られたということだ。

 

 

眠っていた獣は、出逢いの神秘さに永い眠りをよび覚まされ、本来の野性の血の高まりを思いだし、自分をとりまいている平穏という銀の檻のもろさを自覚する。……。こんな自由を忘れ、どうして今まで生きられたのか不思議に思う。……。気がついた時、檻を出た獣は傷だらけになって見捨てられている。その時、傷ついた獣は昔の銀の檻の中の平安とかったるい日常性のおだやかさをなつかしみ、烈しい悔いを感じて泣くだろうか。運命的な出逢いを呪い、あの出逢いがなかったならばと自分の軽率を恨むだろうか。……。人は出逢いの神秘と威力を怖れて、出来るかぎりそれをさけ、その猛威の前から身を守って暮らすのが賢明だろうか。それとも、人のふみ固めた標識ばかり立った大道を昼間を選んで歩き、出逢いをやりすごすことにのみ意を使って暮らすのが聡明だろうか。それもひとつの生き方にはちがいない。しかし、出逢いの出逢いたるゆえんは、そういう慎重な要心にもかかわらず、やはり、雨や風のように不可抗力的におそいかかることにあるのだ。……。
この一度きりしか味わえない人生で、ひとつでも多くの心にかかる出逢いにめぐりあうことは、決して不幸ではないと信じるからだ。万一、ひとつの出逢いにめぐりあったばかりに、その人の運命が思いもかけない波乱の中に投げこまれ、生活の秩序がかき乱されてしまったとしても、長い目で見た場合、そういう人は、その出逢いをさけたところでまたもうひとつの似たような出逢いに逢う運命に置かれていたことに気づくだろう。
大切なのは出逢いによってもたらされる、得とか損とかいう決算勘定ではなく、ひとつの出逢いがひとりの人の人生に、どれほど深い想い出を刻みつけ、物を感じさせ、考えさせ、自分のエゴと他人のエゴとのかかわりあいのきびしさを思い知らされたかということにあるのではないだろうか。
(本章5 自分のしるしを刻みつけたい人は)

 

 

瀬戸内さんが「傷つくこと」を積極的に肯定し、それをむしろすぐれた≪情熱≫のあかしとしている点です。愛とはつまり、いのちの真のよろこびを得るための闘争、生きて闘うことそのことにほかならない――だから傷つくのが当然だ。――そういう明確な自覚と鮮烈な意志があってこそ、愛の自由の実践は、得がたい光彩を帯びてきます。(解説)