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あらすじ
いつか全作品を読んでみたい。けれども、きっかけがつかめない。夏目漱石について、多くの人はそう思っている。現代文のカリスマ講師として名を馳せた著者は、「今だからこそ、忘れられた漱石が必要とされ、その文章が生き生きと甦る」と力説する。漱石を読めば、現代人の心のありようを新しい視点から捉え直すことができる、というのだ。生と死、愛と孤独、宗教と罪、正気と狂気…。現代のわれわれをとりまく切実なテーマが漱石作品にはあり、漱石は現代が直面する危機を誰よりも早く見抜き、警鐘を鳴らしていたのだ。漱石は遠くにいる作家ではなく、すぐそこにいる。そんな実感を与えてくれる、とっておきの読書ガイド。

 

ひと言
下に載せた言葉は、漱石の「こころ」を読んだ誰もが心に残っているフレーズだと思います。私の場合は「あたかも硝子で作った義眼のように、動く能力を失いました」という言い回しも心に残っています。
それから、「ビブリア古書堂の事件手帖」は本もよかったけど、TVのドラマの方もとても楽しめました。第8話のロバート・F・ヤングの「たんぽぽ娘」を読みたくて、あれから図書館で「たんぽぽ娘」で検索しているのですがヒットしません。でも5月18日に複刊するという話なので楽しみにしています。また第1話の「それから」もおもしろく、大輔役のEXILEのAKIRAさんがとても印象的でした。

 

 

 

自由と独立と己れとに充ちた現代に生れた我々は、その犠牲としてみんなこの淋しみを味わわなくてはならないでしょう 「こころ」

 

 

 

封建時代は自由こそなかったけれど、誰もが自分個人のためだけではなく、藩とか家などの集団のため、今の流行の言葉で言えば、「公」のために尽くしたのです。人びとは何のために生きるのか、はっきりとしていました。自分の職業も結婚相手も、個人が悩む問題ではなかったのです。ところが、私たちは「自由と独立と己れ」を得たがために、何のために生きるのかも分からず、何が善で何が悪かも分からないまま、途方に暮れてしまったのです。それが私たちの悲劇でした。その結果、私たちが選択したのは、とりあえず自分の欲望を満たすことだったのです。漱石は人間の自我がエゴへと変わる瞬間を、見事に捉えています。おそらく「自由と独立と己れ」を獲得することは、その代償として孤独を引き受けることに他なりませんでした。ところが、私たちは欲望を満たすことに夢中になり、孤独と対峙することを巧妙に避けたのです。その結果、「こころ」の「先生」が、私たちの孤独をたった一人で引き受け、一人で静かに死んでいったのではないでしょうか。(第1部 自分はどこにいるのだろうか)

 

 

今日始めて自然の昔に帰るんだ 「それから」

 

 

「それから」以後、漱石が善悪といった道徳の代わりに持ち出した理念が、「自然」という言葉でした。…。三千代の兄が死んだとき、代助は自然に逆らって、平岡と三千代の結婚を斡旋しました。その時の代助の気持ちが「自然に抵抗した」のです。そして、今代助は自然に帰ろうとしています。意を決して、代助は三千代を呼び出しました。そして、自分の胸の内を初めて吐露するのです。

 

 

三千代は其膝の上を見た儘、微かな声で、「残酷だわ」と云った 「それから」

 

 

代助の告白を聞き、三千代が「何故棄てて仕舞ったんです」といったことから考えると、三千代の兄が死んだ時点で、彼女はすでに代助のものだと信じていたということが分かります。そのまま二人が結ばれるのが、まさに「自然」だったのです。だが、代助は平岡に対する義侠心から、三千代と平岡の間を取り持とうとしました。絶望した三千代は平岡と結婚するしかなかったのです。その結果、二人の結婚はうまくいかず、夫婦仲はすっかり冷め切っていきます。三千代の口から「残酷だわ」といった言葉が零(こぼ)れたのは、そういった事情を指してのことだったのです。(第3部 引き裂かれた自己)