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あらすじ
2009年のベストセラー、村上春樹『1Q84』の賛否を問う。今を代表する35人の論客が、様々な角度から村上春樹の「1Q84」を照射し作品の謎を紐解く。
あからさまなエンターテイメント性はなぜ導入されたか―桁違いのスケールの「世界文学」(加藤典洋)   これは「卵」側の小説なのか(島田裕巳)   幻談(四方田犬彦)   相対化される善悪―オウム真理教事件から14年経て辿り着いた場所(森達也)   「父」からの離脱の方位(内田樹)      ねじれた都市と歴史の物語(五十嵐太郎)   なぜこういう物語が展開されなければならなかったのか(川村湊)   いまのところ「取扱注意」である(石原千秋)etc……

 

ひと言
いろいろな人の論説を読んで、感心させられたり、ちょっと違うんじゃないかな と思ったりして楽しく読ませてもらいました。心に残った部分を一部抜粋します。  
世界で宮崎のアニメが受け入れられているのは、奇妙な「わかりにくさをもつ」未知の魅力に満ちているからです。村上についても同じことが言える(加藤典洋)  これまでの村上春樹の小説では「正しい」という言葉はセックスと非常に強い親和性を持っていた。しかし、使用頻度は高くなく、大事に使われていた。典型的な例を挙げよう。 その夜、僕は直子と寝た。そうすることが正しかったのか、僕にはわからない。(『ノルウェイの森』) ところが、『1Q84』では「正しい」という言葉が、数えまちがいがなければ、全部で14回も使われている。……(石原千秋)  入院する父親のベッドの上に「空気さなぎ」を見る。天吾は、中には自分の「ドウタ」が入っていることを知っている。だがその中には「美しい十歳の少女」の青豆の「ドウタ」であった。「ドウタ」とはマザ(実体)の心の陰であり、つまり、分身である。天吾の「ドウタ(分身)」が入っているはずの「空気さなぎ」に青豆が入っていたということは、青豆が天吾の「ドウタ(分身)」であるということを示している。……(速水健朗)  奇数章は天吾が書いている小説なのではないかと、…。つまり偶数章が奇数章を入れ子状に抱えこんでいるかもしれない。……(千野帽子)etc……