SUKUNA事務局長さんの本日ブログです。

事務局長さんは

昭和20年、米軍はそこまで
迫ってきていました。

沖縄海域に集めた戦艦は
1500隻以上、兵力は約54万人。

一方の日本軍は、たったの
8万6,000人。

もし沖縄が落ちれば本土九州
はもう目と鼻の先です。

なんとしてでも死守しなければ
ならない…。

沖縄が落ちれば本土が攻撃を
受ける…

そうなれば北からソビエト連邦
(現:ロシア)が攻め入り今の

朝鮮半島やドイツのように
北と南に分断される…
そんな危機的状況だったのです。

そこで日本軍が考えたのが
「特攻」でした。


体当たりによる自爆です。
燃料は行くだけの量を入れ、米軍
に体当たりして自爆するのです。

当時の陸軍の特攻基地の中心が
鹿児島県の知覧でした。

そこの少年兵の訓練は過酷さ
を極めたのです。

わずか14歳で親元を離れ、
ここでの厳しい生活を始めます。

故郷には、手紙さえ検閲があって
書けないので弱音さえ吐けません。

特攻隊で亡くなった若者の人数は
4,400人にものぼります。

いつか死ぬ身であれば、今最大の
国難に立ち向かう事で、愛する人

を守れるのではないかと、若い彼ら
は希望を描いたのでした。

そんな中、少年飛行兵の教官である
藤井中尉という人がいました。


可愛い教え子たちが次々と特攻隊
として死んでいく…。

しかし自分は安全な場所にいる。
「日本が大変な時に俺は教える

だけで本当にいいのか?」
藤井中尉の自問自答が続きます。

藤井中尉には妻と子がいました。
自ら特攻隊に志願すれば、妻と子
とは永遠にお別れです。

当然ながら妻は大反対で夫の志願
を来る日も来る日も思いとどまらせ
ようと必死に説得したのでした。

藤井中尉は悩みに悩んだ末、
選んだ道は…教え子に対して
「お前たちだけを死なせはしない」

藤井中尉は自ら特攻隊に志願した
のでした。


夫の固い決意を知った妻の福子さん
(当時24歳)は

「私たちがいたのでは後顧の憂いに
なり、思う存分の活躍が出来ない

でしょうから一足先に逝って待って
ます」という遺書を残し3歳の長女の

一子ちゃんと生後4ケ月の次女・千恵子
ちゃんに晴れ着を着せて厳寒の川に
身を投げたのです。

妻子の死を知り、一度は特攻隊の
志願を却下されたのですが、今度は

指を切って血染めの嘆願書を提出し、
特攻志願が受理されるのです。

下記は藤井中尉が我が子にあてた
遺書の中身です。

『12月になり、冷たい風が吹き荒れる
日、荒川の河原に露と消えた命。

母と共に命の燃える父の意思に沿って
一足先に父に殉じた、哀れにも悲しい、


しかも笑っているように喜んで母と
共に消え去った幼い命がいとうしい。

父も近くおまえ達の後を追って逝ける
だろう。必ず今度は父の暖かい胸で


抱っこしてねんねしようね。
それまで泣かずに待っていてね。

千恵子ちゃんが泣いたらよくお守り
しなさい。ではしばらく、さようなら』

戦後、米軍の空母で銃撃を担当
していたアメリカ兵の方が次の
ように証言したそうです。

次々と米軍の飛行機を爆撃して
いく日本の飛行機があった

「これはマズい」と米軍は必死の
攻防の末、なんとかその飛行機
を撃ち落としました。

しかしその飛行機は墜落する
寸前で急旋回して米軍の空母
の横から攻撃してきたそうです。


「何という執念…」とそのアメリカ
兵の記憶に鮮明に残っているそうです。

その飛行機に乗っていた人の名は
「藤井中尉」…。

当時の特攻隊の飛行機が飛び
立っていく滑走路。

知覧から沖縄まで2時間。
その2時間後にはもう死んでいる…。

そう覚悟を決めた者たちが飛び
立っていく滑走路…。

特攻隊の飛んでいく先には富士山
のような形の山があります。

「開聞岳」という美しい山です。
特攻隊の誰もが「最後の見納め」
とこの山の姿を目に焼き付けて

大空に飛んで行ったのです。
もう二度とみれない開聞岳を
背にして…。


       (下略)
続きはリブログにて。
胸が締め付けられるお話ですね。

なんの為に。を今日一日しかと
自問自答して過ごします。

今日も大爆笑とありがとうを繋ぎます♪

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