日本の神様とは
問い。素朴な質問ですが、天照大御神という神様は男ですか?、女ですか?
言う。神様を人間の男女のように考えるとは間違ってしまいます。そもそも天照御大神はどうして生まれたのか。『古事記』にはイザナキという男の神様の、左目から生まれたことが記されています。男から子が生まれるはずはない。まして左目から生まれるはずはない。
これだけ見ても天照大御神が男か女かというのは見当違いだと分かるでしょう。また『日本書紀』には「たおやめ」とあり女神に設定されてはいますが、しかし、もともと男神だとか女神だとかといって争う必要はないでしょう。
問い。もともと神様は男でも女でもないのですね。
言う。そうです。目に見えない自然界の万物を生成する働き、これは理法でもあるわけですが、その働きが神です。ですから見えない。また言葉では語りようがない。しかし語り伝えるためには何らかの言葉が必要です。そのために付けた名が、神々の名と思えばよいでしょう。『古事記』には目に見えない神と目に見える神の双方が出てきます。
よく読めば、その違いもすぐに分かります。
わたしたちが住んでいるこの地球上にはさまざまな物が生まれました。人
間もその一つですが、ではいったい誰が作ったのか。
問い。宇宙なのか神様なのか。目には見えないけど、何か表現できない存在が創ったのではと思っています。
言う。目には見えない、認識できない。いま君がいった何か表現できない存在の〝存在〟というのがあるわけではない。創造の原理とか理法とかは目に見えない形而上のものです。
問い。だから先人が『古事記』を書き残したのですか。
言う。そうです。この宇宙を創成した創造の根源は何か。『古事記』の伝えているその一番の根源は天之御中主(あめのみなかぬし)という神です。この神は『古事記』を開くと、最初に出てくる神の名です。もちろん姿形のある神ではなく、宇宙が創成される、さらにそれ以前のことですから、想像を超えた空(くう)です。その創造の本体が天之御中主の神です。
東洋哲学では宇宙生成以前を太虚(たいきょ)といいます。大いなる空、むなしいという意味ですが、太虚といえばさらに難しくなるでしょうから、今は〝大神様〟といっておきます。ですから一神教の神とは全く異なります。
問い。東洋の神と西洋の神の概念が違うのですね。
言う。ヨーロッパの神はとかく人間のような像をイメージします。でも東洋では天とか天帝とか、あるいは道という。『古事記』では天之御中主の神が、その天、天帝にあたります。天といい天帝といい、天之御中主の神といい、みな創造の理法のことを指しています。
たとえばわたしたちは、物を食べれば胃が消化し、腸が吸収し、不要なものを排泄して生きる力を養っていきますが、この働きは誰が命じたものですか。自分が胃や腸に命じてやっているわけではない。からだの仕組みから自然にそうなっている。その自然にそうなっている理法が天之御中主の神のはたらきです。
問い。食べれば消化するというのは当たり前になっていますね。
言う。この自然にして行われる不思議な仕組みを知れば、人間は自分が勝手に生きているのではないことが分かります。それが分かれば目には見えないけれども、想像を絶する広大無辺な力があるのではないかと考え、どんなに我を張っても人間は粟粒のごとき小さなものだと感じます。そうすれば謙虚にならざるを得ない。この不思議な仕組みを尊び、これを仰ぎ、これを畏れ、これに感謝していく。それが昔から続いてきた日本人の宗教感です。
問い。私は、あの3・11の地震が起きた時、何か罰があたったのではないかと思いました。そして傲慢であった自分を恥じる思いでした。
言う。君のその気持ちに、わたしは共感を覚えます。日本人としてのDNAが働いて、そう感じさせたのでしょう。森羅万象をつかさどっている言葉では表現できない大神様を感じたのではないかと思います。
そうした謙虚な気持ちがもっとも大切です。
被災地復興に関係した政府の人たちをはじめ、有識者と称される人たちが、どれだけ人智を超えた威力を感じ得たのかどうか。そういう謙虚な気持ちが強ければ復興の議論も、おのずから変っていたはずです。
問い。たとえば防波堤を高くするとか。
言う。自然界の巨大な力の前に、防波堤がどれほどの意味があるか、論ずるまでもないでしょう。原発の安全神話を信じきっていた人間の傲慢さは、日本人の歴史と伝統からみれば、本来生まれないはずなのですが、人間の傲りというのは実に愚かです。人の為すことに完全なものは何一つもない。人はみな不完全です。その不完全であることを知ることが、真の知者であることを知るべきです。
人は自然には抗えない。自然に立ち向かえば蹴飛ばされる。
わたしたち日本人は自然を尊び、これを畏敬し、これを称えて、これに順応し、これに従い生きていく。それこそが日本人の伝統的神(かむ)ながらの道です。ところが人間は強欲ですから人智に不可能はないなどと考えます。
人生、たかが百年あるかないか。そのうち元気で活動できるのは七、八十年。一睡の夢のようなものですが、一睡の夢を、欲を追いつづけ得られれば傲り、得られなければ鬱病になる。もったいないことです。
問い。欲にはきりがないですね。もっと美味しいものを食べたい。もっといい家を持ちたい、もっといい車に乗りたいという自分がいます。それを追い求めるために働くのも虚しい感じがします。
言う。君自身の心のなかにも葛藤がありますか。お金をたくさん持って裕福な生活をし、着飾っている人もいるでしょう。「いいなあ」と思う気持ちもあるでしょう。その気持ちは、多かれ少なかれ、みな持っています。またその気持ちが、とくに若い時には自分を発奮させ努力させていく原動力になっていることも確かでしょう。若いときに何か具体的目標を持つことは、持たないことよりはかるかによいといえます。
しかし、いずれのときかに真の豊かさとは何か、それに気付くときがあるかもしれません。
※ここで新甫先生は孔子の弟子、顔回(がんかい)と子貢(しこう)について
話をされました。顔回は孔子の門人のなかの、徳行第一の人物で聖人に
次ぐ亜聖といわれました。それに対して子貢は、孔子の郷里・魯国の隣
の斉国の大商人で金持ちでした。
・顔回が言う。「生死は天命です。金持ちは長命で貧乏人は短命ですか。清
潔な衣を着たら革の靴が履きたくなり、皮の靴を履いたら、次は玉の飾り
が欲しくなり、玉の飾りが得られれば、次ぎは青銅の馬車に乗りたくなる。
それに何の意味がありますか。自由な生活に足かせをはめられます」
・孔子が言う。「顔回は貧しき者で、子貢は富める者だ。顔回は貧しくとも
自由であり、子貢は富みのなかが落ち着く。賢者とは心なのだ。子貢よ、
外見にこだわるな」
この話をどう見るかは人それぞれでしょう。
問い。本当に欲にはきりがないですから。
言う。だれもみな貧乏はいやです。顔回のような貧乏のなかでも安らぎを得る
のは、わたしたち凡人には到達し得ない境地ですが、とはいえこの話はいろ
いろ考えさせられてしまいます。
問い。本当に大事なことにお金を使いたいと思います。たとえば学問を修めるためとか…
言う。それは学問の尽きない魅力を知る人にいえることでしょう。学問を好まない人には金銀財宝の方に魅力があります。ただひとつ言えることは学問は幾ら積んでも妬みをかわないが、富は妬みの対象となる。
お金持ちは盗人に襲われるけれど、学問は盗むことはできない。そればかりか尊敬されもする。
③に続く