1月中頃、車を売った。4年落ちの中古とはいえ、日本から個人輸入した車は見た目も性能も悪くはなく約4千ドル分の現金に変わった。それでも滞納していた支払いやスーパーマーケットの付けその他諸々でアッという間に手元から飛んでいく。
 2月1日、一カ月間のラマダンが始まった。夕方、断食明けの祈りの時間を前に我が家を訪れる者が増える。一日の断食を終えた後の最初の食事には特別な意味があり、ナツメヤシの実の砂糖漬け、ジュース、コーヒーに紅茶、甘い重湯、アンジェラ(発酵させた生地を焼くソマリア式のパンケーキ)、揚げパン、炊き込み御飯、スパゲティ、鳥肉や山羊肉のロースト……など今年のラマダン期間中、我が家の夕食は豪勢で、ハワが腕を振るって人々をもてなす。アフリカ生活最後のラマダンかと思うとケチ臭いことは言っていられない。他の余計な出費を抑えながら、13年分の感謝を込めてのささやかな振る舞いだった。
 このラマダンが終わると幸運にも私の仕事が忙しくなり、何度もナイロビを離れる日々が続いた。子供たちの学校の転出のための手続きも始めなければならない。家を明け渡す時期を決めて家財道具を処分し、荷物をまとめなければならない。近くのショッピングセンターの掲示板にガレージセールの張り紙を出し、家電品や家具を売りに出して少しずつ現金化していった。
 13年間のアフリカ生活のなかで、いつの間にか大小さまざまな物が増えていた。これからの生活に必要な物、思い出の品や記録を選り分ける作業は度々滞った。それらを見つけ、手にした途端にこれまでのあれこれの情景が浮かんでしまうのだった。
 ハワは家庭用品をイスリーの親類たちに配ってまわった。アメリカ移住が決まった妹アミナに続いて弟アブディもまた港町モンバサからナイロビに家族を移していた。彼の一家が移住できる望みは断たれていたが、助け合う者の多いナイロビで生活を立て直そうとアパートを借り、運転免許を取って中古車を買い白タクを始めていた。家具らしいものが何も無かったアブディのアパートに大型テレビと冷蔵庫が運ばれた。
 
 1995年5月2日は娘の6回目の誕生日だった。ハワと子供たちの出発は4日に迫っていた。誕生会を開くにも家具が無くなった家では寂しいので、3日の夜にケニア最後の晩餐を兼ねてバーベキュー・レストランへ行くことにした。牛や羊のほかウシカモシカやシマウマ、キリンにワニなどの肉を大串に刺して豪快に炭火で焼いたものをテーブルで切り分けてくれる、観光客にも大人気の有名店だ。
 家族5人だけのこうした夕食は久しぶりのことだった。「バイバイ・ケニア、バイバイ・アフリカ」と乾杯をした。ハワが子供たちにこれからの暮らしの心得などを説き、私はその様子をビデオに記録した。食べ放題なのでいつもは満腹するまで肉をお代わりをする子供たちも、何を感じていたのかあまり食が進まなかった。
 その夜、ベッドも無くなった一番大きな寝室にマットレスだけを敷いて5人で雑魚寝した。考えてみると、そうして家族が肩寄せ合って眠るのはそれが最初で最後だった。1982年8月1日、スワヒリ語を勉強するということでやって来たのが27歳のときだった。たまたま仕事がみつかって滞在を延ばし、ハワと知り合い結婚して子供が出来た。その後ハワの連れ子を引き取り、娘も生まれて家族は5人となった。様々な出来事、知り合った人々のことが次々に思い出されていく。
 みんなの寝息に包まれながら私はしばらく寝付くことができず、そっと起き出してカメラを引っ張りだし、妻と子供たちの寝姿を写真に収めた。
 
 5月4日午後10時15分発KLM564便で妻ハワ、長男ファイサル、次男ジャマル、長女明日見の4人はケニアを後にすることになった。
 かれらが空港内に入ってゆく前、暫くの別れを惜しんで一人ひとりを抱き締めた。かれらの心中は不安ばかりだったことだろう。ことにケニアから一歩も出たことの無かった子供たちの心境はさぞや複雑なものだったに違いない。我が家でのソマリア内戦による最大の被害者は子供たちかも知れない。自分達では何も出来ず、社会や家庭の情勢に流されるだけの子供たちなのだ。ある日突然、ソマリアから叔父さんが出てきたかと思うと我が家は難民たちの通過地となり、おばあちゃんも他の叔父さんも叔母さんも家族ごと移ってきてしまった。両親は口論を繰り返し、家庭事情はなんだか分からないうちに悪くなっていった。住む家も狭くなり、しかし人の出入りが激しくなった。それにつれて父母の表情は険しくなり、いつの間にかいろいろなことが変わっていった。そしてついに生まれ育った国を出ることになり、言葉も習慣もまったく違う日本に移り住むことになった。
 「マッサラーマ」最後に私はハワの肩を抱いて言った。「元気でいるんだぞ。準備が出来たらアメリカまで迎えに行く」
 イミグレーション・カウンターを通って4人の姿が空港内に消えた。
 すぐには何もなくなってしまった家に帰る気にはなれなかった。
 ジョモケニヤッタ国際空港の最上階に、飛び立つ飛行機の姿を眺めることの出来るレストランがある。その窓際のテーブルで滑走路を眺めながら時間をやり過ごした。妻と子供たちを乗せたKLM便は定刻より少し遅れてナイロビの夜空に吸い込まれていった。暗いアフリカの空に機影が溶け込んで、一人ビールを飲みながら、それ以後に待ち受ける私たちの生活に漠然と思いを巡らせていた。



   後書き


 1995年5月に妻子を送り出した後、アフリカ最後の仕事を片付け身辺の整理を済ませた私は6月中頃に日本へ戻った。アメリカの親族のもとに身を寄せていた妻と子を日本へ呼ぶことが出来たのはその年の10月1日のことだった。


 私自身が浦島太郎状態の日本で4年の間に様々な出来事があって1993年5月、妻は日本には居たくないと娘を連れてアメリカの母や妹たちの暮らす土地へと旅立った。そのようにして再び「マッサラーマ」の言葉を口にしなければならなくなるなど思ってもいない事だった。さらに2年半あまりの別居の後、私たちは離婚した。


 


 この文章を構想したのは1994年のことだ。仕事柄新聞記事の切抜きをスクラップブックにまとめる作業は以前から続けていたが、特にそれと意識することなくソマリア関連の記事や雑誌などはアブドゥラヒが出てきて以来別に取っておくようになっていた。それが帰国を意識し始めて以来、途切れがちだった日録のメモをとるようになりそれまでの出来事を辿ってノートにまとめる作業を開始した。ソマリア人自身によるノンフィクションや分析、解説的文献が幾冊か出版されていたが、いずれも資料としての興味を満たす以上のものは少なかった。それは私が日本人であり、ソマリア内戦との関わり方の違いもあったからだと思う。私は私なりに一つの国の内戦が直接の当事者ではない人間にどのような影響を与え、その人生をどのように左右していったのかを記録に止めておきたいという思いが強かった。


 ノートへの下書きは帰国を期に半ばにして中断したままになっていた。ようやくそれをまとめようという気になったのは、2001年9月11日のニューヨークでのテロ事件に対するアル・カイダへの報復攻撃の対象と予想される国としてソマリアの名が浮上してきたからだった。


 現時点でソマリアに本当の政府は出来ていない。おそらく今後も数年ではソマリアの国家としての復興は残念ながら望み薄い。あの、資源に乏しい半砂漠の土地がひろがるアフリカの角には、いまだに薄幸のなかでなんとか生きていく事だけを生きる人々がいる。そして世界中に散らばってしたたかに生き続けるソマリア人たちがいる。今、世界から知られるソマリアは、海賊の国という不名誉なレッテルを貼られた世界最貧国のひとつでしかない。


                  2009年10月



後書き後記
本文は講談社のノンフィクション誌G2のウェッブ版に発表したものです。その後、登場した幾人もの人物が避難したケニヤからアメリカへと渡りました。娘の高校の卒業式に参列するためにアメリカを訪ねた時は、そんな人たちが集まって私を食事会に招待してくれたこともありました。
長い混乱を経て、現時点でソマリアには政府が存在しています。しかし旧イギリス領だった北部にはソマリランドという非公認の独立政府が存在し、同じく自治政府プントランドを名乗る地域もあります。そのあたりは高野秀行さんがレポートした著作に詳しく紹介されています。ソマリアの混乱はいまだに収束していません。そして内戦前の風情を残す祖国を失ったままアメリカやヨーロッパ、オーストラリアは言うに及ばず、アジアの国々にもこの日本にも暮らし続けているソマリア人たちがいるということを覚えておいて欲しいと思っています。
      2019年1月             佐藤 汎